Saturday, January 25, 2020

At Hiroshima Teishin Hospital, the hairs of two middle school patients had been protected by a hat remains, while that below the line hangs down in burned strips from Hiroshima Atomic Bomb.

広島逓信病院にて、1945年10月8日に原爆症を治療中の2人の患者は、中学生のように見える。 帽子で保護されていた髪毛は残っている。しかし、髪毛の線の下で燃えた皮膚が、痂皮に垂れ下がっていた。広島原子爆弾の熱線と爆風の強度を証明している。手術室で応急的な治療室を兼用していた。黒く壊れた手術用の無影灯が天井からぶら下がっていた。時計が午後6時を過ぎても、治療室の外では被爆者が待機して列を並んだ。
 鉄筋コンクリートの2階建ての広島逓信病院は、爆心地から東北約1.4kmで猛烈な爆風を受けた。病院職員は、死亡は約5人、院長を含めて重症は約7人に及んだ。午前9時頃から西端の薬品倉庫から出火して、広島逓信病院の2階と逓信局の3階に火災が拡がった。消火により1階の病院には火災は及ばなく残存した。この時点で、重症な被爆者は約200人と火傷の被爆死やは約700人が殺到した。疎開していた広島逓信局の約100枚の畳を、直ちに収容被爆者のベッドの代用とした。収容患者は約平均220名で、8月6日から8月15日までの約10日間で約60人が被爆死した。
 広島逓信病院は、広島原子爆弾に被爆する約1月前の1945年7月頃に、空襲の対象を避けるために、全ての入院患者は退院させ疎開させた。周辺の施設、軍隊、軍司令部、学校などは被爆で壊滅して焼土となった。爆風で広島逓信病院の窓枠は吹き飛んだ。爆心地から約2kmで病院として残存していたのは、広島日赤病院と広島逓信病院のみであった。被爆者に対して、広島逓信病院内で一日中にわたり懸命で厳しく可及的な救護がされた。
 蜂谷道彦院長は約56日間の被爆治療を記録した『ヒロシマ日記』(朝日新聞社, 1955年)を刊行した。"Hiroshima Diary" Michihiko Hachiyama (North Calorina University Press, 1955, 約18国で翻訳済み。田辺剛造岡山大名誉教授(整形外科)は証言する。「私は岡山医大の三年生、広島が大変だということで二十日ごろ、医師二人、学生二人、看護師三人で救援活動に行き、広島逓信病院で蜂谷院長に会いました。全身傷だらけでしたが、元気に診療されていました。白血球を勘定してみいと言われ、原爆症の特徴を教えてくださいました」。


Saturday, January 18, 2020

A soldier reciving medical treatment to his seared back, burned by heat rays at Fukuya Department Store, a temporary accommodation center.

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、広島市内は壊滅した。その焼け野原の中で、コンクリート製の建物が一部残存した。爆心地から約710メートルにある八丁堀の福屋百貨店のビルも被災した。ビルは残存して、市内53箇所に急設された被爆直後の一時的な救護所となった。そこに多数の被爆者が殺到した。8月12日に一人の日本軍兵士が、背中に重度の火傷を受傷した。その背中の痂皮の処置を受けた。被爆直後から各フロアを病室に充てた。八丁堀本店の福屋百貨店の南側には、臨時火葬場が仮設された。膨大な死体までの処理は困難であり、市内の焼やけ跡あとの至るところで火葬が行われた。
 1938年に、地下2階と地上8階の福屋百貨店が開店した。当時はまだ珍しい冷暖房設備を備えた近代的な建物で、多くの人で賑わった。しかし、すでに時代は戦時体制となり、1945年には陸軍や統制会社などが強制使用することになり、休業状態に陥っていた。広島原爆の炸裂を一撃の大閃光と大轟音から「ピカドン」と呼んだ。福屋の近くで原爆の直撃を受けた。しばらくしても室内は真っ暗で何も見えなかった。爆風で飛散した粉塵で光が遮られた。粉塵も静まると周囲はだんだん明るくなった。室内は、天井は落下して、机、椅子、ついたて等は飛散した。渦巻く黒煙と火焔に包まれた。各地から、うめき声や助けを求める悲鳴が発生した。極めて大きな爆風を受けて、機材が飛散して散乱した。



Sunday, January 12, 2020

Burns on her back differ according to unevenness, Late September, Japan Red-Cros Hospital, Hiroshima.

広島原子爆弾に被爆した少女は、背中の凹凸に応じて軽度から重度の火傷を受けた。9月下旬の広島赤十字病院に救護された。発後数時間以上生存し、医師の診察を受けた患者の火傷の発生率は95以上%と報告している。
火傷は熱線に直接に面していた部分に主に生じて、爆心地から約3.5km離れたところでも、皮膚の部分には火傷を受傷した。原子爆弾の炸裂と同時に爆心地の温度は摂氏約100万度を超えたた。空気中に発生した火球は、約1秒後には最大直径約280mと暴発した。火球から四方に放出された熱線は、炸裂後の約100分の1秒から約3秒間、地上に強い影響を与えて、爆心地周辺の地表面の温度は、瞬間に摂氏約3,000から4,000度にも達しまた。原爆からの強烈な熱線によって焼身された被爆者は重度の火傷を受傷して、膨大な人が被爆死した。爆心地から約600m以内の屋根瓦は、表面が溶けて泡状になった。樹木への着火も多く、爆心地から約3km以内では木材、樹木、電柱などが黒焦げになった。熱傷の後に、傷面の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生し、皮膚面に不規則な隆起を生ずるケロイド状態になった。被爆後約4ヵ月頃より発生し、約6ヵ月~1年2ヵ月後に最も顕著となった。爆心地から約2km前後で被爆した人に多かった。
 広島日赤病院は、爆心地から南方約1.5kmに設置されていた。広島原子爆弾の落下から炸裂によって、鉄筋コンクリート3階建であった日赤病院は 原子爆弾の強烈な爆風により外郭だけを残して全壊した。当時は日赤病院の一部は 広島陸軍病院分院としても併用された。地下室に保管していたレントゲンフィルムがすべて感光化していた事から、特殊爆弾が原子爆弾であることが立証された。被爆した直後から 生存した医師・看護婦は、救護を求めて集合してきた被爆者にわずかな医療機材を用いて診断と治療を続けた。広島日赤病院は、広島原爆の投下と炸裂により壊滅的な被爆を受けた広島市にて、倒壊や焼失を免れた数少ない医療機関の1つであった。被爆直後から負傷者が殺到した。 設備や備品は破壊され、薬品も治療材料も直ちに底をつく状況で、生存した医師や看護婦たちは、昼夜を分かたず被爆者を救護した。

The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he was still suffering from severe burns and keloids (Bring Back the Human Being, 1982).

    The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he suff...