Saturday, November 3, 2018

A huge number of survivors rushed to Michino Station through Nagasaki Main Linen near about 3.5 km north-northwest of Nagasaki City. (Nagasaki)

長崎原子爆弾が1945年8月6日午前11時2分に投下されて、長崎市内は壊滅した。生存していた膨大な被爆者が、長崎市内から北北西約3.5kmにある長崎本線の道ノ駅に殺到した。直ちに、大村海軍病院から8月9日に第1次救護隊が派遣された。8月10日に第2次救護隊と交代した。重態の被爆者は、大村海軍病院に列車で護送された。8月10日の午後に、大村海軍病院の第2救護隊が、背部に重度の熱傷を受けた被爆者に、薬液を医師と看護婦が塗布した。その間にも、続々とリヤカーで被爆者が道ノ駅に搬送されて、手当の順番を待ったその間にも、多数の被爆者が道の駅で死亡した。


Friday, October 26, 2018

The Temporary First Aid at Sumiyoshi bridge was made by a digging hut where the atomic bombed corpses were pulled up and burned on the tin board from the Honkawa river.

住吉臨時救護所は掘っ立て小屋であり、トタン屋根であった。被爆者のわずかな応急手当てをして、生存可能者を後方の救護所へ護送した。トタン板の上で、本川に流れて来た被爆者の死体を引き上げては火葬した。多くの火葬された白骨の一部が散在した。
 広島市に原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて、爆心地の周辺は完全に崩壊して全滅した。爆心地から約1.4km太田川に分流である本川の最も南側に住吉橋がかかっていた。原子爆弾が炸裂して約1週間後の8月12日頃に、住吉橋東詰めに被爆者を収容する臨時救護所があった。この救護所には、東地区の警備隊長が管轄して、軍医1名、衛生兵1名の体制で、重度の被爆者を収容した。近隣には住吉神社、中島国民学校、広島県立病院、広島県庁があり、広島市の東西を結ぶ繁華街であり、多くの被爆者が倒れて被爆死した。


Saturday, October 13, 2018

At the Shiroyama National School in the uninhabited zone with atomic bomb survived by the Nagasaki atomic bomb, countless white bones were scattered even after two months. (Nagasaki)

城山国民学校は、長崎原子爆弾の爆心地の西500mと最も近い学校であった。城山国民学校は激烈なる爆風と熱線から放射線を被爆して全焼して、鉄筋コンクリート3階建の学校内部は完全に破壊された。炸裂後には、甚大な犠牲者わ伴って、約28人の教職員と全校生徒の約1,400名も学校あるいは自宅で原爆死した。さらに城山国民学校を作業場とした三菱兵器製作所の所員の約58人と女子挺身隊の約10人と学徒報国隊員の約41人ん動員学徒を約109人も同時に原爆死した。辛くも生存していたのは、わずか約19人であった。城山国民学校では、全く身元も認証できまいままの多くの死体を散在していた。長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下され炸裂して約2ケ月が経過した10月中旬でも、無人地帯となった校庭には、無数の白骨が散在した状況のままであった。長崎原子爆弾による倒壊をまぬがれた階段塔屋部分は爆心地の短距離に残る最大規模の被爆建造物として保存されている。 



Friday, October 5, 2018

A Japanese young soldier was transported with severe burns due to the Hiroshima atomic bomb to a temporary Hospital in Ninoshima Island off Hiroshima Bay (Hiroshima)

広島原子爆弾により、人体の全体に重度の火傷を負った若い兵士が、陸軍船舶司令部により似島臨時収容所に護送された。特に顔から上肢にかけた熱傷で皮膚が爛れて、仰向けで瀕死の状態となった。広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。その直後の午前10時には、生存していた重度の被爆者を、広島宇品港から南3kmの似島第二検疫所に搬送した。広島市内は壊滅して、似島第二検疫所は約5,000人分の医薬品等の備蓄があった。広島原子爆弾で史上初めての被爆者のための壮絶な臨時救護野戦病院となった。似島第二検疫所にはも原子爆弾の投下直後から約20日間で治療が必要な約10,000人もの重度の被爆者が護送された。しかし、医薬品はわずか4日間で枯渇して、ほとんど重度の被爆者は原爆症で死亡した。



Monday, September 24, 2018

A 3 year old girl died in Omura Naval Hospital just after hospitalization due to Nagasaki atomic bomb. (Nagasaki)

長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されて、重度の火傷を3歳の女児が被爆した。8月26日に大村海軍病院の三病舎に入院した。すぐに重症で重毒であるとし診断された。右側頭部挫傷と左右の下肢が熱傷した。入院して、火傷部にガーゼー覆うべき処置をした。その後の入院記録もなく、入院直後に死亡したと推察された。終戦後には、大村海軍病院に9月26日に進駐してきたアメリカ兵が病院の被爆者の資料をすべて持ち帰った。 1973年アメリカ陸軍病理学研究所(AFIP)から学術資料や病理組織などが返還された。

Saturday, September 15, 2018

The dead bones of Hiroshima atomic bomb victims were buried in a thousand mounds at the site of the quarantine station on the Ninoshimar island. (Hiroshima)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に炸裂した。広島港から約3kmの似島の救護所に、宇品の陸軍船舶司令部から午前9時頃に手信号で緊急連絡が入った。広島港は日清戦争の西端の大本営となり、海外の帰還兵士の感染症の検疫と消毒のために、似島に検疫所を設置していた。十代の青年兵士である暁部隊が、広島市内の被爆者を、数隻の上陸用船艇に多数の重症の被爆者を載せて、午前11時頃に似島に到着した。千人塚の左後方像では、暁部隊が特殊潜航艇(マルレ)を運用した。第二検疫所には約10,000に及ぶ重度の被爆者の臨時野戦病院となり、8月6日の原爆の日だけでも、約2,000人が護送された。原子爆弾は、無差別に火傷で変貌した全身で、男女の区別もつかず、幼児に至るまで大量虐殺であった。膨大な被爆者に対して、似島に駐屯していた衛生隊や検疫所の軍人は、すべてが救護活動に関わった。4日目には医療機材等を使い切った。重度の放射線被爆者は約4日以内に死亡した。被爆による原爆死の死体の処置は、ほとんど他の応援部隊が執行した。主に掘ってあった防空壕などに死体を埋葬した。似島から瀬戸内が一望できる防疫班の厩舎跡に、身元不明者の被爆者の遺骨の墓標として千人塚に埋葬された。1955年に約2,000人の遺骨を発掘して、平和公園内の原爆供養塔に納骨して千里塚は撤去された。




Sunday, September 9, 2018

A 15 years old boy who was mobilized as a student was exposed to the Nagasaki atomic bomb at the Mitsubishi factory and suffered from severe burns and tetanus with intense pain.

長崎原子爆弾が1945年8月9日に炸裂して、15歳の男子が重度の熱傷を被爆した。大村海軍病院に翌日の1945年8月10日に護送されて入院した。男児は、中等学校以上にる学徒勤労動員されて、長崎三菱養成所で被爆した。顔面、背部、右上肢、左右右足背に重度の熱傷を被爆して、大村海軍病院の八病舎に収容された。8月11日以降は毎日生理食塩水であるリンゲル液500CCを静注された。8月20日には破傷風を発症して、頚部は硬直して、顔貌は痙笑して、牙関緊急の症状が出現して、開口が不能となった。熱傷の創面は著変なくても、激しい疼痛を伴っていた。腹筋も著明なる緊張があり、圧痛を伴った。脊髄痛があり、膝蓋腱反射も消失した。直ちに8月20日に破傷風の血清20ccを脊髄腔に注入した。8月21日には破傷風の血清20ccを脊髄空と皮下に注入した。8月22日には破傷風血清を20ccを静脈内に、20ccを皮下に注射して、8月24日まで注射を継続した。その後の記録はないが、8月24日に病死したと推定された。



The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he was still suffering from severe burns and keloids (Bring Back the Human Being, 1982).

    The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he suff...