Saturday, May 11, 2019

Hospitalized 23 years old army medic was exposed from behind during morning gathering and suffered from heat burns and radiation sickness. (Hiroshima)

広島市に1945年8月6日午前8時15分に投下された広島原子爆弾の炸裂により、23歳の日本軍衛生兵が教育隊前の朝礼の集合中に、後方より被爆して赤十字病院に入院した。熱線により頭部に熱傷を被爆して、右の耳たぶは酷い火傷を合併して耳翼は欠損した。右耳は不聴で、左耳は難聴となった。広島原爆による重度の放射線障害を伴って、1945年10月上旬には、頭皮はほとんど脱毛して、下痢、発熱、斑点を伴った。熱傷と放射能障害を合併したが、奇跡的に生還した。
 原爆症とは、1つの病名ではなく、原子爆弾の被爆者に頻発する病態を総称している。疫学的に統計学的な有意差がある原爆症の発生の度合いが、顕著に高い。原子爆弾の炸裂による熱射や輻射熱による障害、破壊された家屋等の下敷きなどによる火傷や外傷が、治癒しないで残る場合がある。被爆した時には認められなかった原爆症が、原子爆弾の放射能を多量に浴びて、経時的に発病する場合がある。火傷では、瘢痕やケロイド、拘縮などを引き起こす。放射能による障害は、白血病 甲状腺がんなどが合併する。
 原子爆弾の被爆者に認められる白血病は 爆心地から約1,000m以内の至近距離の被爆では、発生頻度も死亡率も、一般市民と比較して、十数倍も高い。原子爆弾の放射能が血液を製造する骨髄に蓄積して、骨髄機能を侵害する。慢性の骨髄性の白血病が著しく頻発する。その他に動物実験、放射能の治療により、発生頻度が高くなるなど、証明された原爆症の根拠から、原爆症の代表的疾患として、白血病、原爆白内障、高度小頭症、肺・甲状腺・皮膚・卵巣がん、ケロイドなどが認知されている。




Monday, April 29, 2019

The poet Fukuda Sumako, who was exposed to the Nagasaki atomic bomb, spent her life in order tp protest no more of atomic bombs and died of atomic bomb disease.

長崎原子爆弾に被爆した福田須磨子は生涯をかけて、終末期になるまで原子爆弾の禁止に向けて、長崎原爆の証言を続けた。1974年4月2日に52歳で、ついに絶命した。
 福田須磨子は、1922年3月23日に長崎市浜口町43番地に生誕した。1945年8月9日に、長崎男子師範学校会計課に勤務中に、長崎原爆に被爆した。1955年に、原爆被爆の後遺症状による紅斑症(SLE)を発病して、病院に入院と退院をくり返した。原子爆弾の非人道性、被爆の怨念と平和の探求、反原爆の闘いに生涯をこめた「われなお生きてあり」を刊行した。
 1955年8月8日に、長崎市の平和公園に平和祈念像が完成した。その3日後の11日に、「ひとりごと」と題された投稿が朝日新聞夕刊ひととき欄に掲載された。反響は大きく盛り上がり、詩人として反戦運動に活動と参加する起点となった。1959年に『長崎の証言』創刊号にエッセイを執筆した。1969年に第8回田村俊子賞を受賞して、怨の女、愛の女となり、福田須磨子は火玉或いは阿修羅となり、原爆の危機と核兵器に対する文筆で抵抗をして訴え続けた。

福田須磨子詩集 『原子野』(現代社)より
「生命を愛しむ」
新しき年の始めに
しみじみとわが生命愛しむ
原爆の傷痕胸にみちしまま
絶望と貧苦の中で
たえだえに十年
げにも生きて来しかな
悲しみと苦痛の十字架をおい
ほそぼそと生命かたむけ
生きて来しこの現実を
奇蹟の思いでかえりみる
“吾尚生きてあり”
ここに座し 一切を観ず
ふきちぎれた魂は
未完の生を夢み
一片のわが生命を愛しむ


福田須磨子の詩碑
「1945年8月9日
 午前11時2分、第二次世界大戦末期、世界第2の原子爆弾が広島についでこの地、長崎の上空に炸裂した。
 一瞬に死傷者は十数万人に達し生存者はその後30年にわたって原爆後遺症と生活苦に呻吟しつづけた。福田須磨子もその一人である。
 しかし彼女は黙することなく生涯かけて原爆の非人道性を訴えつづけた。この碑は福田須磨子の不屈の生涯をしのびあわせて世界の恒久平和を祈念するために全国の有志920名の御芳志をもって建立するものである。
1975年8月2日詩碑建立委員会(長崎市の爆心地公園に詩碑)」


Friday, April 19, 2019

After burning the many corpses that had been sacrified by the Nagasaki atomic bomb, the remains of bones were scattered on the ground. (Nagasaki)

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下して炸裂した。長崎市内は、強烈で甚大な防風、熱射、放射線により、壊滅した。爆心地の周辺では、身元も特定できない膨大な被爆死した死体が散乱していた。放置されたままの死体を約3週間すぎた8月26日頃になってから、多数の腐敗していた被爆死を野火で火葬した。火葬したままで遺骨は後片付けも十分にできずに地面に散乱していた。



Wednesday, April 10, 2019

The world's first hydrogen bomb experiment was forced on October 31, 1952 on the Enowetok Atoll of the Marshall Islands.

 世界初の水素爆弾の実験が、1952年10月31日にマーシャル諸島のエニウェトク環礁の無人環礁で強行された。中部太平洋のマーシャル諸島にあるエニウェトク環礁では、アメリカにより約44回もの核実験が実施された。水素爆発の爆発規模のTNT火薬の総量では約3万3千キロトン、広島原子爆弾の約16キロトンの約2,000発分を上回った。日本のマグロ漁船「第五福竜丸」は、1954年3月1日の水素爆弾から被曝したビキニ環礁の約23回より多かった。エニウェトク環礁は無人環礁となり、地球原爆化から地球水爆化による地球撲滅にむけた実験地点となった。


 
 太平洋戦争にて、アメリカ軍の膨大で圧倒的な武力で、エニウェトク環礁の日本軍兵士は刀折れ矢もつきて、全員が死亡する玉砕をした。バンザイ突撃して戦死するだけでなく、日本刀で切腹、狙撃銃をのどに当て、足趾で引き金を引いて自決した。
 1944年2月20日にエニウェトク環礁にアメリカ軍歩兵が上陸を開始した。上陸から3時間後に日本軍からの反撃で一時的に進撃が頓挫した。後援の海兵連隊が派遣されて、再び侵攻を盛り返した。2月21日から23日午後まで、散発的な抵抗を受け続けた。日本軍兵士による2月21日早朝と午後に突撃するバンザイ突撃が、エニウェトク環礁の最後の軍事的抵抗となった。日本軍約3,560人の犠牲者は、捕虜以外は全員が死亡した。アメリカ軍約10,376人の犠牲者は、戦死と行方不明は約195名、戦傷者は約521名に達した。エニウェトク環礁は核実験となる完全な無人環礁となった。


Friday, April 5, 2019

The pain associated with severe back burns by the heat from the atomic bomb made it difficult for him to go down at the relief center and torment and sleep with the prone position.

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾の炸裂から発する激烈なるすさまじい爆風の圧力、爆風、熱線の威力が複合して押し寄せた。熱線を、男性は悲惨な重度の火傷を背中一面に受傷した。火傷には、ひどいびらんにより、一面に表皮が破れ落ちた。その火傷とそれに伴う疼痛によって、救護所のふとんに仰向けになったままで、背中を下にできなかった。そのために背中を上にして、苦悶してうつ伏せに寝込むしかなかった。少しでも身体を動かすものなら、傷口が干割れして、中から膿血がタラタラと流れて飛び上がるほど疼痛を伴った。毎日うつ伏せの寝たきり状態で苦痛を耐え忍んだ。
 人体に熱傷を与えたのは、爆発後の0.3秒から3秒の間に放射された赤外線であった。衣服をまとわぬ人体皮膚の熱線熱傷は、広島で爆心地から約3.5kmまで、長崎で約4kmまで及んだ。熱線による織物や木材などの黒こげは、広島で爆心地から約3kmまで、長崎では 約3.5kmまで及んだ。両都市とも爆心地から約1.2km以内で遮蔽のなかった人体かに致命的な熱線熱傷を受け、被爆死の約20から30%が原子爆弾による熱傷と推定された。
   原子爆弾の炸裂直後から発したわずか数秒間の激烈な熱線により、被爆者の建物や衣服や十分に遮断されていない皮膚に放射された。凄まじい熱戦により、重度の火傷による犠牲をもたらした。爆心地からの距離により火傷の程度は異なった。前方向から被爆した人は腹部に火傷、後方向から被爆した人は背中側が火傷を受傷した。重度の火傷になると表皮は焼けただれてはがれ落ち、皮下の軟部組織や骨まで開放して露出した。


Saturday, March 30, 2019

The mobilization of female students who had been exposed to the Nagasaki atomic bomb received treatment from a nurse at the Omura Naval Hospital, without expression.

長崎原子爆弾に被爆した女子学徒動員は無表情に、1945年8月10日午後3時頃に、大村海軍病院の看護婦から処置を受けた。両腕と顔面から頭皮部の火傷に包帯を巻かれた。海軍看護師の周囲には、膨大な被爆者が殺到して、次から次へと手早く救護した。重態の被爆者は、道ノ駅から北東約20kmの大村市内の大村海軍病院に8月9日午後3時頃から護送され始めた。
 長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に長崎市内に投下されて炸裂した。アメリカ軍爆撃機B-29ボックスカーによって投下されたプルトニウム型原子爆弾ファットマンが上空約500mの地点で爆発し、付近一帯は一瞬にして壊滅した。生存していた膨大な被爆者が、長崎市内から北北西約3.5kmにある長崎本線の道ノ駅に殺到した。大村海軍病院から8月9日に直ちに第1次救護隊が派遣され、8月10日に第2次救護隊と交代した。

Friday, March 29, 2019

An atomic bomb victim who was rescued at the Ninoshima Quarantine Station had a widespread abscess with almost scalded burns.(Hiroshima)

広島原子爆弾より、広範囲に重度の火傷を顔面から両方の上肢に被爆して、似島検疫所に救護された。その後に放射能被爆による免疫機能の低下も伴って、広範囲にわたり火傷面が化膿して膿瘍を形成した。
 原子爆弾の火傷は、光線や熱線による高熱により、屋外にて爆撃に暴露した。特に裸体になるほど高度の火傷を受けて。火傷の特徴は爆心方向面のみ被爆した。原子爆弾の炸裂によりできる火の玉の温度は、中心部では100万℃をこえ、大きさは1秒後に最大直径280mにもなった。放出された非常に強い熱線によって、爆心地では地表の温度が3,000~4,000℃にも達した(太陽の表面温度は5,700℃、鉄がとける温度は1,500℃)。


The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he was still suffering from severe burns and keloids (Bring Back the Human Being, 1982).

    The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he suff...