Thursday, August 1, 2019

A mother and daughter recieving medical care for atomic disease one month after exposure of Hiroshima Atomic Bomb.

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した爆心地から北に約2.4kmにある大芝国民学校が、倒壊と焼失を免れて、8月7日から臨時救護所となった。学校の教室の片隅に、板間のゴザ上に、布団を引いて、毛布をかけて母親と娘が寝込んでいた。医師と看護婦の巡回診療を1945年10月11日に受けた。被爆当初は、医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人に専門を越えた不眠不休の医療活動が求められた。
 31歳の母親は、被爆当初は、火傷や外傷も無く元気にして、娘を看病していた。8月6日の被爆から約1カ月経過して、体調の不良を伴って、9月18日から大芝国民学校に入所していた。次第に全身に皮下出血様の紫斑が出現して、歯茎から出血して、咳が悪化して、呼吸困難となり重篤な原爆症に陥った。巡回診療から10月14日に原爆死した。
 12歳の娘は、爆心地から南西約2kmの舟入町の自宅で被爆した。冷蔵庫が倒れて下敷きとなり、後頭部に裂傷を伴って、頭部打撲により一時的に意識消失した。右股関節が脱臼して、右膝と左足内側に外傷を伴って化膿していた。被爆後の約2カ月後から、母親と同様な原爆症が出現して、頭皮が脱毛して、下痢、光熱が続いて、やがて母親と同様に原爆死した。

Friday, July 19, 2019

In the early 1960s, the Soviets developed a series of hydrogen bombs, and on October 30, 1961, they exploded the most powerful thermonuclear device ever created.

ソ連は、1960年代初頭に連続して水素爆弾の核実験をした。1961年10月30日午前3時30分に、ソ連は人類の歴史上で、最も強力な核兵器を爆発させた。北極に浮かぶノーヴァヤ・ゼムリャー島で核実験された核爆弾は、TNT爆弾で約58メガトンに相当した。爆弾は核融合段階で、さらに強力なウラン238の代わりに、鉛タンパーを使う3段階の核融合した。空中投下され爆発して、少量の核分裂生成物が放出されて、何百マイルもの空間を照らした。重水素化リチウムと重水素化リチウムの核融合によって熱核エネルギーが生成された。順番に配置されたシリンダ内で、各段階が次の段階を発火した。1962年には、さらに20から30メガトン級のTNT爆弾に相当する4つもの水素爆弾が核実験された。アメリカ軍とソビエト連邦軍の冷戦における軍拡競争は互いの軍事行動に過激に反応して大きく軍拡された。
  他の原子力大国も水素爆弾の開発を追求した。第3番目のイギリスは1954年に、独自の水素爆弾の開発を決定した。1957年11月8日にクリスマス島で、TNT1.8メガトンに相当する水素爆弾を爆発した。第4番目の中国は、1967年6月14日に水素爆弾を爆発させた。最初の原子爆弾から32か月後にはTNT3.3メガトンに相当する熱核爆弾を爆発させた。最後にフランスが、水素爆弾の熱核融合装置を、1968年8月24日に太平洋のファンガタウファ環礁でTNT火薬2.6メガトンに相当した結果、環礁をひどく核汚染した。その他にインドとパキスタンの両国が、1998年の核実験に熱核装置またはブースト核分裂装置を実験したと推定された。イスラエルには核分裂に基づく核兵器があると推定された。世界の核兵器は、約6,000個以上もの核兵器があり、その大部分は熱核爆弾で構成した。既存の核の備蓄以外にも、核兵器計画を積極的に追求する国が他にもある。2006年に北朝鮮は限定核兵器を爆発させ模様である。イランの核実験計画の真意も未だに不明である。



Sunday, July 14, 2019

A blaked skeleton bones bured to death while it tried to escape from air-raid shelder on the premises from the Nagasaki Atomic Bomb.

長崎原子爆弾「ファットマン(Fat Man)」が1945年8月9日の午前11時2分にアメリカ軍の爆撃機B-29「グーレート・アーティスト」から投下されて炸裂した。8月10日に爆心地から南約300m付近の長崎市浜口町北端に、這って出る姿のままの黒焦げになった骸骨が瓦礫に埋もれていた。民家の屋内防空壕から逃避するも、家の崩壊して脱出できずに、まる焦げになり焼死していた。跡形も無くなり、何も見分けもつかない死体が散在していた。原爆が炸裂した直後から焼ける猛煙で一面が真っ黒になった。家の下敷きになって生きたまま焼け死ぬ多数の悲鳴が響いた。下敷きになり焼け死ぬ者の救出は、猛火の中を逃げ回る被爆者らにはとても不可能となった。
 原子爆弾は、炸裂時に猛烈な熱線を放出する。熱線により、爆心地付近は一晩中にわたり燃え続けてほとんど焼失して全滅した。何千度の高熱で、人も建物も何もかもが炭化した瓦礫になった。爆心地から約2km付近までは、非常に重態の火傷を受けた。爆心地から約4km付近までは、露出した皮膚に火傷を受けた。


Friday, July 5, 2019

A-bomb survivors who were rescued by Fukuromachi National School had burns on the white wall, and many messages for searching for their immediate parents remained. (Hiroshima)

広島原子爆弾の投下して炸裂により、被爆者が袋町国民学校に救護された。救護された被爆者は、白壁に焼跡の消炭で、「ミチコどこへ行った、母が来た」というような肉親を探し求めた多くの跡が残っていた。被爆者の書き置きが、救護所の壁の左の上部に残った。当時救護所として利用されていた校舎の壁や黒板に、家族などの行方を捜す多くの人が伝言を書いた。学校近くの病院に勤めていた娘を探す母が、「田中鈴江 右ノモノ御存知ノ方ハお知らせ下さい」と書き残している。「高一 瓢文子ガ火傷シテ・・・治療ヲ受ケテヰマス・・・」と担任が、被爆した生徒を伝言した。 
 1873年から開校した袋町国民学校は、広島原子爆弾の爆心地から南東に約460mにあった。炸裂後にほとんど教職員と疎開しなかった2年生以下の生徒らの約160人は広島原爆で即死した。すべての木造の校舎は倒壊して焼失した。第二次世界大戦の前に鉄筋コンクリートで作られた西校舎だけは、広島原爆投下した後も校内で唯一の建物として残った。外観だけ留めた西校舎は、被爆直後から救護所として使われた。家族や知人が、被爆者の消息を求めて西校舎に、連絡手段の代わりに伝言を壁に書いた。2000年に、西校舎の建て替えのために解体した時に、救護所であった壁の漆喰や黒板から多くの被爆伝言が発掘された。2002年に西校舎の一部が、平和資料館として残存されている。



Saturday, June 29, 2019

A girl who lost her hair, probably as a result of the exposure to radioactivity from Nakasaki Atomi Bomb. (Nagasaki)

長崎原子爆弾にによる被爆によって、少女は長崎市興禅寺町の新興善国民学校の救護病院に救護された。長崎原爆からの放射能の影響による重度の脱毛症状により、収容された少女には1945年8月下旬には、ほとんど毛髪が抜けた。放射能の影響は、初期の放射能被爆だけでなく、燃え残りの死の灰や混ざった雨となった黒い雨などの残留放射能でも被爆して、急性放射能症状を伴った。放射能は、物体を通過して、人体を透過して、細胞や遺伝子に障害を伴った。
 脱毛は、早期には原爆の被爆後んら1週間後から始まり、第3週頃に発症した。そのほかに、皮下出血もしばしば合併して、生存者の多くでは、12~14週で元に戻った。特に脱毛部は、毛髪の毛母基が重度に障害された。脱毛の重症度は、爆心地からの被爆距離にも強い相関があった。至近距離ほど高頻度に被爆直後から2週間の急性期から発症した。被爆して3から4月以上に生存した頃から、脱毛部からの発毛が出現した。



Saturday, June 15, 2019

The bald head of one of the crew on 7 April 1954, focusing on the burn and general skin discoloration from Hydrogen Bomb at Bigini.

アメリカ軍の1954年3月1日の水爆実験により被爆した乗組員の頭部には、急性放射能症により、黒ずみ、眼球の疼痛とかゆみを伴って、耳孔が腫れた。全身が水膨れ、ただれて、皮下出血した。頭部は脱毛して、吐き気、めまい、疼痛を伴って、脱力で虚弱になり、歯茎や鼻から出血、吐血と下血した。帰港した3月14日から協立焼津病院で診察後に、重篤な2人とその後に5人は東京大学病院に搬送された。全員が、骨髄の造血障害により、顕著な血液中の血球成分が極度に減少した。
 太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁から約160km東に停泊していた第五福竜丸(乗組員23人、140トン)は、1954年3月1日午前6時4分にアメリカ軍のブラボー水爆実験により被爆した。突如に、強烈な閃光が射し込み、紅赤から白黄から黒色に変色しながら巨大な火の玉のキノコ雲が急上昇した。約8分が経過して、猛烈な爆音が響き渡り、船体が動転した。約2時間して、五里霧中となり、細雨と白灰が激しく降り注いだ。降り注ぐ白灰が、顔や頭部から全身にかけて、白灰が堆積して覆われた。乗組員たちは、周囲に堆積していた白灰を振り払った。白灰の成分は、サンゴ礁のカルシウムの粉末に、ウラン237とプルトニウム239などの放射性物質が付着した。
 1954年3月14日午前5時30分頃に日本の焼津港に帰港した。3月16日付の朝刊により「邦人魚夫ビキニ原爆実験に遭遇、23名に原子病、水爆か」が公表された。全世界に向けて、水爆実験により、人類と地球の破滅の危機感が拡散した。水爆に被爆した第五福竜丸と乗務員は、人類が水爆に汚染された象徴となった。1954年9月23日に、第五福竜丸の無線長の久保山愛吉(40歳、男性)が、人類初の水爆の被爆による肝臓障害で死亡した。アメリカ軍は、死亡の原因は輸血であり、水爆実験を依然として否定している。第五福竜丸は、地球水爆遺産として夢の島に保管された。


Saturday, June 8, 2019

Outpatients suffered from Hiroshima atomic bomb were treated at a first aid station in Fukuromachi Elementary School with straw mats and coarse ropes. (Hiroshima)

広島原子爆弾よる被爆者が1945年10月6日に、袋町国民学校で応急手当を受けた。わらのマットが敷かれて、ロープで蚊帳を引き上げて仕切って、外来患者は救護された。爆心地から約460mの袋町国民学校救護所には、原爆症の治療を受けるために並ぶ被爆者の列は後を絶たなかった。袋町国民学校の1階に急造の外来診察室が設置されて、窓はまだムシロで、荒縄で蚊帳を釣り上げて、ハエと蚊などを避けた。蚊帳の中に、入院患者を収容していた。しかし、多くの被爆者たちが死亡した。生き残っても、原爆症の後遺症に苦しめられた。
 袋町国民学校は、木造校舎は全焼全壊するも、鉄筋コンクリートの西校舎だけは倒壊だけは免れた。8月6日に登校していた児童と教職員の約160人が重度に被爆してほんどはど一瞬で原爆死した。残存した袋町国民学校は10月5日から救護所が整備されて、日本医療団病院として、袋町救護病院が発足した。階段の壁面には、チョークで被爆者の消息を尋ねる多数の伝言が残されていた。広島市内の救護所も合計7カ所に整備された。救急臨時救護所は、戦時災害保護法に基づいては2カ月間は運営された。10月5日時点で11ヵ所で、入院患者は約500人と入院患者は約1,200人に達した。




The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he was still suffering from severe burns and keloids (Bring Back the Human Being, 1982).

    The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he suff...