Friday, August 9, 2019

Heat and flesh rays from Hiroshima atomic bomb caused burns on the exposed part of the human body.(Hiroshima)

広島原子爆弾の炸裂により、青年被爆者は皮膚の色素が脱出した顔面の火傷を被爆した。帽子から露出した顔面から頸部の皮膚は、広島原子爆弾からの熱線と原爆放射能によってすべて焼き尽くされて、帽子をかぶっていた跡が残った。
 原子爆弾が人体に与える障害や損傷を、原子爆弾症(傷)と呼称した。これらの障害は、(1)熱や光線、(2)爆風、(3)放射能の影響などで発症する。熱や光線は、人体の露出部を熱傷する。爆風により、建物や家屋の倒壊による圧死や外傷を受傷する。放射能は、増殖組織である骨髄、脾臓、リンパ線や生殖線などに損傷を受ける。爆心地からの距離にも相関して、障害を伴った。
 1946年の初頭から原爆放射能によって、熱傷の傷口の皮膚から瘢痕組織が不規則に盛り上がってケロイドが生じて、皮膚が拘縮した。ケロイドは爆心地から約2km以内の地域で、1945年8月6日に原子爆弾の熱線を皮膚に直接に受けた被爆者の約5割程度に発生した。この広島原子爆弾の写真記録などは、終戦後からアメリカ陸軍病理学研究所に保管されて、1973年に日本に返還された。



Wednesday, August 7, 2019

In Yamasato-machi near the hypocenter of the Nagasaki Atomic Bomb, a mother with a child standing in the ruins did not move . (Nagasaki)

長崎市の爆心地近くで、母親とおんぶした子どもが1945年8月30日に、廃墟でしばらく爆心地付近に立ったまま動かなかった。長崎市にいた親族を探すため、原爆が落とされた山里町に向かい、焼け焦げた山里町を歩き回った。長崎原子爆弾は、中央後方の立ち木の上空約500mで爆発した。せんだんの巨木は爆風と熱線のため、幹の一部はさけ折れて、枝葉はすべて焼失している。
 長崎原子爆弾は1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂して大爆発した。爆心地付近の長崎市山里町では、全ての存在物が完全に崩壊と焼滅して、がれきの山となった。長崎原爆戦災誌(長崎市)によると、長崎市山里町は、爆心地である松山町171番地から約500mに位置した。原爆以前の山里町の世帯数は約850戸、人口は約4千人と推定された。原爆で建物は全壊と全焼して、屋外の被爆者は全滅して、生存者は1人も確認されない。少なくとも約1,500人が死亡した。1964年の町名変更で、山里町は現在の平和町と平野町に含まれる。


横浜市立大島中学校の中学生が、2014年5月27日に長崎原子爆弾の被爆者が、原爆や戦争の悲惨さを語り継ぐ「長崎の証言の会」の語り部の9名が、長崎市平和公園で学習会に参加した。語り部の森口貢さんが聴く態度が不良な中学生らを注意すると、グループ学習から離脱した。爆心地から北に約700mの山里小学校にいた生徒に語り部をした時に、不良な5人の中学生がグループ学習にいた森口貢さんに向けて、「死に損ないのくそじじい」と暴言を吐いた。生徒らは、暴言の問題を認識もできず、被爆者を傷つける行為にも気づけなかった。
 

Saturday, August 3, 2019

The injured boy recieved and cried the gauze treatment in the temporaly relief hospital at Shinkozen Primary School.

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。顔面から上半身を火傷した少年は、新興善臨時救護所で火傷の治療を受けながらガーゼ交換による激しい疼痛により泣いた。赤く焼けただれた火傷から肩から骨が露出していた。
 新興善国民学校は爆心地から南南東約3.0kmであるも、長崎原子爆誕による倒壊や消失を免れた新興善国民学校は、被爆直後から臨時救護所となった。8月11日には針尾海兵団より救護隊が到着して救護支援をした。その後には、佐世保海軍病院の医療隊も到着して医療支援した。壊滅した長崎医科大学附属病院に代わり、長崎市内の最大の救護所となった。8月16日には新興善特設救護病院に転換した。10月6日には、長崎医科大学附属医院となり、被爆者の医療も支援した。長崎市立新興善小学校は1997年に統合して閉校した。


Thursday, August 1, 2019

A mother and daughter recieving medical care for atomic disease one month after exposure of Hiroshima Atomic Bomb.

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した爆心地から北に約2.4kmにある大芝国民学校が、倒壊と焼失を免れて、8月7日から臨時救護所となった。学校の教室の片隅に、板間のゴザ上に、布団を引いて、毛布をかけて母親と娘が寝込んでいた。医師と看護婦の巡回診療を1945年10月11日に受けた。被爆当初は、医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人に専門を越えた不眠不休の医療活動が求められた。
 31歳の母親は、被爆当初は、火傷や外傷も無く元気にして、娘を看病していた。8月6日の被爆から約1カ月経過して、体調の不良を伴って、9月18日から大芝国民学校に入所していた。次第に全身に皮下出血様の紫斑が出現して、歯茎から出血して、咳が悪化して、呼吸困難となり重篤な原爆症に陥った。巡回診療から10月14日に原爆死した。
 12歳の娘は、爆心地から南西約2kmの舟入町の自宅で被爆した。冷蔵庫が倒れて下敷きとなり、後頭部に裂傷を伴って、頭部打撲により一時的に意識消失した。右股関節が脱臼して、右膝と左足内側に外傷を伴って化膿していた。被爆後の約2カ月後から、母親と同様な原爆症が出現して、頭皮が脱毛して、下痢、光熱が続いて、やがて母親と同様に原爆死した。

Friday, July 19, 2019

In the early 1960s, the Soviets developed a series of hydrogen bombs, and on October 30, 1961, they exploded the most powerful thermonuclear device ever created.

ソ連は、1960年代初頭に連続して水素爆弾の核実験をした。1961年10月30日午前3時30分に、ソ連は人類の歴史上で、最も強力な核兵器を爆発させた。北極に浮かぶノーヴァヤ・ゼムリャー島で核実験された核爆弾は、TNT爆弾で約58メガトンに相当した。爆弾は核融合段階で、さらに強力なウラン238の代わりに、鉛タンパーを使う3段階の核融合した。空中投下され爆発して、少量の核分裂生成物が放出されて、何百マイルもの空間を照らした。重水素化リチウムと重水素化リチウムの核融合によって熱核エネルギーが生成された。順番に配置されたシリンダ内で、各段階が次の段階を発火した。1962年には、さらに20から30メガトン級のTNT爆弾に相当する4つもの水素爆弾が核実験された。アメリカ軍とソビエト連邦軍の冷戦における軍拡競争は互いの軍事行動に過激に反応して大きく軍拡された。
  他の原子力大国も水素爆弾の開発を追求した。第3番目のイギリスは1954年に、独自の水素爆弾の開発を決定した。1957年11月8日にクリスマス島で、TNT1.8メガトンに相当する水素爆弾を爆発した。第4番目の中国は、1967年6月14日に水素爆弾を爆発させた。最初の原子爆弾から32か月後にはTNT3.3メガトンに相当する熱核爆弾を爆発させた。最後にフランスが、水素爆弾の熱核融合装置を、1968年8月24日に太平洋のファンガタウファ環礁でTNT火薬2.6メガトンに相当した結果、環礁をひどく核汚染した。その他にインドとパキスタンの両国が、1998年の核実験に熱核装置またはブースト核分裂装置を実験したと推定された。イスラエルには核分裂に基づく核兵器があると推定された。世界の核兵器は、約6,000個以上もの核兵器があり、その大部分は熱核爆弾で構成した。既存の核の備蓄以外にも、核兵器計画を積極的に追求する国が他にもある。2006年に北朝鮮は限定核兵器を爆発させ模様である。イランの核実験計画の真意も未だに不明である。



Sunday, July 14, 2019

A blaked skeleton bones bured to death while it tried to escape from air-raid shelder on the premises from the Nagasaki Atomic Bomb.

長崎原子爆弾「ファットマン(Fat Man)」が1945年8月9日の午前11時2分にアメリカ軍の爆撃機B-29「グーレート・アーティスト」から投下されて炸裂した。8月10日に爆心地から南約300m付近の長崎市浜口町北端に、這って出る姿のままの黒焦げになった骸骨が瓦礫に埋もれていた。民家の屋内防空壕から逃避するも、家の崩壊して脱出できずに、まる焦げになり焼死していた。跡形も無くなり、何も見分けもつかない死体が散在していた。原爆が炸裂した直後から焼ける猛煙で一面が真っ黒になった。家の下敷きになって生きたまま焼け死ぬ多数の悲鳴が響いた。下敷きになり焼け死ぬ者の救出は、猛火の中を逃げ回る被爆者らにはとても不可能となった。
 原子爆弾は、炸裂時に猛烈な熱線を放出する。熱線により、爆心地付近は一晩中にわたり燃え続けてほとんど焼失して全滅した。何千度の高熱で、人も建物も何もかもが炭化した瓦礫になった。爆心地から約2km付近までは、非常に重態の火傷を受けた。爆心地から約4km付近までは、露出した皮膚に火傷を受けた。


Friday, July 5, 2019

A-bomb survivors who were rescued by Fukuromachi National School had burns on the white wall, and many messages for searching for their immediate parents remained. (Hiroshima)

広島原子爆弾の投下して炸裂により、被爆者が袋町国民学校に救護された。救護された被爆者は、白壁に焼跡の消炭で、「ミチコどこへ行った、母が来た」というような肉親を探し求めた多くの跡が残っていた。被爆者の書き置きが、救護所の壁の左の上部に残った。当時救護所として利用されていた校舎の壁や黒板に、家族などの行方を捜す多くの人が伝言を書いた。学校近くの病院に勤めていた娘を探す母が、「田中鈴江 右ノモノ御存知ノ方ハお知らせ下さい」と書き残している。「高一 瓢文子ガ火傷シテ・・・治療ヲ受ケテヰマス・・・」と担任が、被爆した生徒を伝言した。 
 1873年から開校した袋町国民学校は、広島原子爆弾の爆心地から南東に約460mにあった。炸裂後にほとんど教職員と疎開しなかった2年生以下の生徒らの約160人は広島原爆で即死した。すべての木造の校舎は倒壊して焼失した。第二次世界大戦の前に鉄筋コンクリートで作られた西校舎だけは、広島原爆投下した後も校内で唯一の建物として残った。外観だけ留めた西校舎は、被爆直後から救護所として使われた。家族や知人が、被爆者の消息を求めて西校舎に、連絡手段の代わりに伝言を壁に書いた。2000年に、西校舎の建て替えのために解体した時に、救護所であった壁の漆喰や黒板から多くの被爆伝言が発掘された。2002年に西校舎の一部が、平和資料館として残存されている。



The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he was still suffering from severe burns and keloids (Bring Back the Human Being, 1982).

    The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he suff...