Friday, December 6, 2019

At the Kusatsu rescue hospital in Hiroshima city, the pathologic group performed an autopsy on the dead body of an Atomic bomb deseae on October 13, 1945.

広島市内の草津救護病院にて病理医が、1945年10月13日に死んだ被爆者の遺体を剖検をした。内蔵などを取り出して、病理医が病理学的診断をするために観察した。草津救護病院の臨時剖検所は、県立病院救護所の組織に組み込まれた時に設置された。病理医は、京都府立大学の荒木正哉教授が担当した。写真は、79歳の女性が広島原子爆弾に被爆して、10月12日に被爆死した。その遺体を剖検するために、廿日市工業学校の救護所から廻送された。
 原子爆弾が投下された直後は、とても厳しい状況下で医療救護だけでなく、原子爆弾の災害の調査がされた。その過程で、多くの資料、病理標本、記録などが蓄積された。最も早期に原子爆弾の被爆による病理学的な所見は、陸軍省調査団の山科清が早期に死亡した被爆者の病理解剖の標本と詳細な記録である。陸軍軍医学校の山科清は大本営調査団らと、原子爆弾が炸裂した8月6日から2日後の1945年8月8日に、広島市内に参入した。まず膨大な被爆者が似島検疫所に収容されて死亡した遺体を、山科清博士自身が自ら執刀して解剖した時から貴重な病理解剖の所見が記録された。被爆死した遺体の組織を、病理標本を作成して顕微鏡で詳細に病理診断をした。8月10日から広島沖合の似島検疫所にて剖検を始めた。8月11日から京都帝国大学調査団も参入した。東京大学の都築正男は、広島で被爆して8月24日に死亡した女優を急性放射能症と診断して、世界初に原爆症の第1号をカルテに記載した。文部省学術研究会議の原子爆弾災害調査研究特別委員会の医学部門の責任者として8月30日に広島市内に入り、現地調査・被爆者救護にあたった。
 1945年8月29日から10月13日にかけて、広島医専の玉川忠雄は早期放射線で被爆死した19症例に病理解剖をした。被爆後間もない混乱の中、民心の悲嘆、動揺、不安その他の情勢から剖検は広島県衛生部の反対に遭遇した。脱毛、皮下溢血ほか前人未知の病態を呈する事例の多発から、変死体の処理という名目で許諾された。1例目は26歳の女性で、爆心地から約1.3Kmの鉄砲町で被爆して8月27日に死亡した。2例目は58歳の男性など、19例が剖検された。広島逓信病院の敷地内に工兵隊が建てたバラック小屋を改修して臨時剖検室とした。しかし、剖検記録、標本、写真等は連合軍最高司令官総司令部(GHQ)の主導による日米合同調査団によりアメリカ軍に強制的に徴収された。長期間にアメリカ陸軍病理学研究所(AFIP)に保留されて、1973年に日本に返還された。GHQは、9付き19日に原子爆弾の調査内容を日本人が公表することを禁止した。1946年2月から8月までの期限付きで、許可申請で認可したが、1951年まで日本人の研究発表は抑圧された。


Saturday, November 30, 2019

At the Ohshiba National School relief station, many of the survivors who died in the Hiroshima atomic bomb were cremated in the schoolyard. White bones were buried in the soil, and the remaining white bones were scattered around them.

広島原子爆弾の爆心地から約4.7kmにあった大芝国民学校(現在の広島市立草津小学校)は被爆した直後から臨時の救護所に転換した。広島原子爆弾が炸裂した1945年8月6日当日から引き続いて被爆者が護送されて、重篤者は収容された。8月中には約3,000人も越えた被爆者が集積した。治療も十分にできずに、多数の被爆者が被爆死した。多数の引取もいない死体は、草津国民学校の校庭で火葬をして白骨を校庭の土中に埋葬した。火葬場の周囲には、埋葬して残存した白骨が火葬場に散乱していた。
 広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂により爆心地の周辺は壊滅した。広島市内には瞬時に原爆死した被爆者の膨大な死体が散乱した。たとえ生存した被爆者には、原子爆弾から放射された猛烈な爆風や灼熱の熱線や広範囲の火災などにより、火傷や外傷などの負傷を伴って、短期間に甚大な被爆死を発生した。さらに、数週間以内に原子爆弾からの放射線の被害による被爆死が激増した。
 その死体の処理のために、生存した身内や関係者らが、広島市内の至る所で火葬して白骨化した。その周囲から行方不明の多数の白骨を集積しては土中に埋葬した。特に臨時の救護所や残存した学校や病院の付近では、被爆病死した死体を処理する火葬が連日に舞い上がった。黒こげ胴体だけの死体の判別は、ほとんどできなかった。学校の校庭の片すみを掘って、焼残りの材木を集めて火葬にした。臨時火葬場は超満員の状況であり、それに必要な燃料がなくなると、保管していた天井板まで使用して火葬作業を続けた。収容した被爆者が次々に被爆して、それを火葬する人手もたらないほどであった。 
 大芝国民学校は臨時の特設救護病院となった。広島原子爆弾の爆心地から北 2.4kmにあった。校舎が大破して、一部は焼失した。校庭に避難者があふれたため、臨時救護病院になった。8月6日は周辺は火災にかこまれ、救護に当たった者は、動かせない重傷患者を残して、一時避難しなければならなかった。しかし、火の勢いが鎮まるとともに、救護者は引き返して再び任務についた。医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人がいたが、その人たちの専門を越えた不眠不休の医療活動が、切実に必要とされた。


Tuesday, November 19, 2019

A woman who suffered severe burns from the face to the entire upper limb from the Hiroshima atomic bomb was bedridden in the first national school.

広島原子爆弾の炸裂による重度の被爆者が、広島市段原山崎町4番42号の第一国民学校に収容された。第一国民学校は爆心地から南東に約2.64kmに位置していた。鉄筋校舎により全崩壊を防いで、救護所に転用された。広島原子爆弾により北側の木造校舎は倒壊した。その他の東校舎や講堂などは、窓枠や窓ガラスが破壊された。その校舎や食堂などは全壊は免れた。被爆後に、東校舎と講堂は臨時救護所となり、1945年10月上旬まで多数の被災者を収容して救護した。6年生の国民学校初等科を終えた子どもが、2年間通った。
 1945年8月7日から20日にかけて顔面から上肢の全体にかけて、重度の火傷を被爆した女性が、第一国民学校の救護所内で寝たきりになっていた。右手指の重度の火傷を身内の女性らが処置していた。広島市内で崩壊を免れた鉄筋の学校などの建物が、救護所として転用された。連日にわたり、多数の被爆者が受診した。広島市前身となる広島市立第一高等小学校が、1932年4月1日に広島市段原山崎町に設立された。軍事主義教育の色合いが濃い「国民学校令」の施行により、1941年4月1日に広島市立第一国民学校と改組された。第一国民学校は、現在は段原中学校に転用された。
 国民学校令が1941年3月1日に公布され,同年4月1日からそれ以前の小学校が国民学校に改組した。国民学校令は小学校令を全面改正し、初等教育・前期中等教育を行う国民学校を天皇が勅令した。国民学校の目的は、「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」に要約された。「皇国ノ道」とは、教育勅語の「国体の精華と臣民の守るべき道との全体」であり、「端的にいえば皇運扶翼の道」と例えた。国民学校では、「教育の全般にわたって皇国の道を修錬」を目ざした。「初等普通教育」は国民学校の内容、「基礎的錬成」は、教育の方法を示した。


Thursday, November 14, 2019

A rescuer took care of a girl who suffered from the Hiroshima atomic bomb, who was lying on the truck bed and tried to eat rice ball.(Hiroshima)

1945年8月15日午前8時15分に広島市内に原子爆弾が投下されて炸裂した。2日後の8月10日に、爆心地から約760mの上流川町(現 胡町)にて、救援隊員が被災した少女を介抱した。トラックの荷台に横たわる少女に握り飯を食べさせようとした。救護所に収容しきれない被爆者は、トラック、列車、船などで遠方の市町村に護送された。座り込んだ救助隊員が、頭の近くに置かれたボウルからおにぎりを少女を食べさせようとした。


 上流川町で広島流川教会は、旧1886年(明治19年)より布教を開始した。太平洋戦争末期には、軍服仕立て工場になったり、牧師も工場に徴用された。広島原爆で、礼拝堂は残骸だけ残して悉く灰になった。会員は死者約75人に昇、生存者約35人で再建に取り組んだ。広島流川教会の礼拝堂の前にかかげられている黒焦げの十字架は、「被爆十字架」と呼ばれ、広島原爆の被爆によってほぼ炭化した木材となった。1995年、被爆50年を記念して前会堂正面に掲げた。
 戦後に、谷本清牧師を中心にして(谷本清平和賞を創設)、アメリカの教会・慈善団体と連携して、原爆孤児に対する精神養子運動、日本全国に訴えて回った原爆乙女渡米治療運動に熱心に取り組んだ。精神養子とは原爆で身寄りを失った子供たちの養育を、アメリカ人家庭が手助けする「親子縁組」である。アメリカに1995年治療に渡った原爆乙女約25人の内、1人は手術台の上で、2人は帰国後に悲惨にも死亡した。ヒロシマ・ピースセンターの設立して、1971年に教会は上幟町近くに移転した。

被爆十字架

Sunday, November 3, 2019

Keloids and ulcer have developed on the back and arms of this 18 years old, who suffered burns in Hiroshima 1.6km from the hypocenter.

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。爆心地から約1.6Kmで被爆した18歳の少女は、背中と上肢に火傷からケロイドと潰瘍を受傷した。被爆後の約3月後の1945年11月13日に、アメリカ陸軍によりカラー写真が撮影された。右肩から斜めに、カバンの紐の跡は無傷の皮膚のままに残存した。露出していた両上肢と背部には、火傷によるケロイドが発生した。ケロイドは彼女の顔、背中、そして彼女の腕と脚の関節に現れた。 ケロイドは関節の動きを妨げ、身体的および精神的な苦痛をもたらした。火傷後に、皮膚は再生して損傷を覆って治癒して、通常は傷跡が残る。ケロイドは、過剰に増殖する異常な瘢痕組織の不規則な腫瘤を発生した。熱放射線は人体を貫通しないため、身体の火傷部分は熱放射にさらされた部分であった。多くの場合に、身体の露出面のみが火傷して、非露出面は火傷の影響を受けにくい。
 原子爆弾の炸裂した直後に出現した急性の影響に加えて、放射線はさまざまな長期的な原爆症の問題を引き起こした。 過剰に増殖する異常な瘢痕であるケロイドが出現した。数年後、被爆者のかなりの割合が白血病または他の癌で死亡した。放射線の影響は今日でも曖昧であり継続的な研究が必要である。被爆者は常に自分の健康と後遺症を恐れた。原子爆弾の高い放射能は、被爆者の健康に壊滅的な影響を与えた。原子爆弾の炸裂により、被爆者は傷跡やその他の身体的損傷などの外傷により多くの負傷を負った。多くの負傷は爆弾の放射能によって引き起こされた。放射線は、脱毛、貧血、白血球の減少、下痢を引き起こした。その後、放射線は血液異常、男性と女性の両方の不妊、白血病、白内障、ケロイド、および多くの癌などのより深刻な原爆症を引き起こした。 


Sunday, October 20, 2019

At the Hiroshima atomic bomb, the child was injured in the head, received care from her mother and nurse, and stared in fear.

広島原子爆弾によって犠牲となった子どものの母親は、広島での原爆の被害者である負傷した子供を世話した。頭部にガーゼを巻いた子どもは、側にいる母親と看護師からケアを受けた。子どもと母親が、不安に怯えながら見つめ合った。広島第一陸軍病院の宇品分院の救護所の看護婦は、子供の頭部の傷をケアした。被爆者の親子は、救護所内で、ござやすのこの上で布団をまとい寝込んでいた。1945年9月中旬に、アメリカ軍海軍が調査のために撮影した。
 広島原子爆弾の人体への影響を研究する米国の調査団が、1945年9月11日に広島市宇品町の広島第一陸軍病院の宇品分院に調査に入った。爆心地から南に約4,200mで達する。マンハッタン管区調査団が、米国の調査団初めて広島市内に入った。被爆地が安全かどうかを確認し、原爆の影響、特に放射線に関する影響を調査するために、多くの情報を収集した。
 大和人絹が1934年10月に、広島市宇品町に広島工場を創業した。1943年2月に陸軍に接収されて、工場の約3分の2が陸軍船舶練習部に使用された。建物の多くは木造であるが、広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂しても、爆心地から約4kmも遠方のため、爆風の被害はガラス窓の破損と屋根瓦の飛来と軽傷であった。被爆直後から被爆者たちは続々と難を逃れて混雑と混乱をした。応急処置をして収容する状況ではなかった。午後4時頃から重傷者たちが、表門からはトラックで、裏門からは舟艇で運び込まれ続けた。停電の中で、ロウソクと懐中電灯で徹夜の救護活動が続いた。8月7日朝には約4,000もの被爆者が集積した。8月9日に臨時陸軍野戦病院に転換して約6,000人以上を収容した。8月25日になって広島第一陸軍病院宇品分院に改組となった。


Wednesday, October 2, 2019

At the moment of the Nagasaki atomic bomb exploded, the mushroom cloud was filmed on a color film for about 3 minutes 50 seconds.

長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に、長崎市内の浦上天主堂の約500m付近の上空で大炸裂した瞬間を上空から捉えた。きのこ雲を16mmのカラーフィルムで、約3分50秒の映像として記録された。原爆搭載機のB-29(ボックス・カー)は、高度約9,600メートルの上空から、広島原爆に次ぐ約1.5倍の威力のある第2号の原子爆弾となるプラトニウム239型(ファットマン)を長崎市内に投下した。第1目標の小倉上空が空爆の煙などに覆われて、第2目標の長崎上空に変更して、雲量のために目視でなくレーダーによる爆弾投下を迫られた。示された照準点への爆弾投下まであと約30秒に、トーン・シグナルが作動し、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと25秒のとき、雲の切れ間から長崎市街の浜口町と芝里町の一部をわずかに目視できて、急遽に投下する目標地点となった。爆心地は、目標地点より約500m北方にずれて、松山町171番地のテニスコートの上空約503mで炸裂した。キノコ雲は、一瞬にして長崎市内の全域を覆った。炸裂の瞬時に、数千万度の火球が出現して、体積が急激に拡大した。1万分1秒で直径約30m、温度は30万度に達して、火球は0.01秒から1秒の間に直径約280mにも達した。炸裂による巨大なエネルギーは、地上を吸い上げ、巻き上げて原子雲が刻々と変色しながら立ち上った。
 原子爆弾による被害と犠牲者は、想像を絶するほど甚大となった。死者は約73,884人、重軽傷者は約74,909人、被災人員は約120,820人(4km以内の全焼全壊の世帯員数)、被災戸数は約18,409戸に昇った。爆心地より1km以内は、強烈な爆風と熱線によってほとんど即死した。建物と木柱は粉砕して、爆心地は瞬時に焼失して、周囲の各所から強烈な火災を発生した。2km以内は、一部は即死し、大部分は重軽傷の原爆症を受けた。木柱は約80%倒壊して、次第に燃え移り火災が拡大した。4km以内は、輻射した熱線で一部は火傷、爆風による飛散物で一部は重軽傷を受けた。建物は半壊、一部の建物と木柱が焼失した。8km以内では、飛散物により一部重軽傷を受けた。建物は半壊あるいは一部損壊した。爆風は、風速約15kmで、窓ガラス・扉・障子などを損壊した。



The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he was still suffering from severe burns and keloids (Bring Back the Human Being, 1982).

    The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he suff...