Friday, December 20, 2019

After the explosion of the Hiroshima Atomic Bomb, many Japanese soldiers had evacuated to the remaining concrete Hiroshima Station premises that did not burn down.

広島原爆の炸裂後から、広島駅構内には多数の日本軍兵士が避難していた。構内から南側の駅前広場には、全身火傷や裂傷などや原爆症で約2,000人以上もの被爆者が救護を求めて押し寄せた。翌日の8月7日には、広島駅は軍用線であった宇品線から次第に復旧して、8月8日に山陽本線が部分開通して、列車は被爆者を運搬する救援列車と物資の搬入列車となった。
 広島原爆の爆心地から約1,850mの広島市松原町の広島駅は、窓枠などは爆風で吹き飛ばされた。広島原爆の爆風は、増築したばかりのの待合室をもぎ取り、屋根は押し下げれられた。爆風後の熱線等により、火災で屋根は抜け落ち内部は全焼した。広島原爆によって、建て増し部分の待合室が倒壊し、駅舎の屋根も押し下げられて変形した後、火災によって内部は全焼した。焼け跡からは後日、待ち合わせ中の陸軍幼年学校生徒の約20人をはじめ78人の遺体が見つかった。広島駅の職員も約11人が原爆死した。広島駅のホームの方から大勢の乗客が線路を走り越えて、広島市光町の東練兵場の方に走って逃げた。広島駅では、ホームの上屋根が本線上の客車の上に落ちかかって全線が不通になった。
 広島駅は日本で最初のコンクリート駅として、1922年にモダンな駅舎に建て替えられた。山陽本線をはじめ、呉線、芸備線、宇品線が発着し、年間乗降客は1941年には約1,000万人を越えた。原爆投下当時、広島は産業的にも軍事的にも重要な都市であった。周辺に多くの軍隊の陣地があり、最も重要なのは広島城にあった南日本全土の防衛を指揮した陸軍第2軍司令部であった。広島市は日本軍にとり小規模な補給基地であり、大量の軍事備品も備蓄していた。通信センター、海運の重要な港、軍隊の集会場所でもあった。戦争産業の蜂の巣であり、飛行機やボート、爆弾、ライフル、拳銃用の部品を製造していた。当時に空襲による被害を受けていなかった京都に次いで日本で2番目の大都市であった。家は瓦屋根の木材で作られ、工業用建物の多くは木枠の周りに建てられて、広島市全体は、火災による被害を非常に受けやすくなっていた。広島の人口は、戦争の初期に約381,000人を超えていたが、原爆投下の前は、日本政府の命令による体系的な避難により人口は約340,000から350,000であった。1945年12月までに、広島市人口の半数弱の約140,000人が原爆死した。


Friday, December 13, 2019

A number of atomic bomb deaths were engraved on the tombstones of atomic bomb survivors by the Hiroshima atomic bomb.

広島原子爆弾により被爆死した被爆者の墓碑に多数の「原爆死」の文字が刻み込まれた。広島市の北部三滝山の墓地の一角に、原爆死の墓碑がある。年齢も若年期から高齢期まで無差別に散乱していた。広島原子爆弾によって、広島市内は被爆の犠牲者の膨大な墓場となった。市内に膨大にに散在する墓碑や墓場には、多くの「原爆死」が記載された。永久に行方不明となり身元が不明な「原爆死」となり墓石も存在しない甚大な被爆死が散在した。
 墓石には、「原爆死」した日時と年齢および名前と家族構成だけが記載された。原爆死した日時は、最も多くは広島原爆が投下された1945年8月6日の熱線と爆風である。墓碑には、四女・8月6日・原爆死・36歳、六女・8月6日・原爆死・28歳、八女・8月10日・原爆死・20歳・原爆死と刻まれた。被爆してから約1周間程度は心身には特記なかった。しかし、約1周間から10日程度で放射線により重篤な原爆症となり、約3週間程度から原爆死者数が急増した。墓碑には、ニ男・9月6日・44歳・原爆死、長男・12月4日・原爆死・59歳と刻まれた。



Friday, December 6, 2019

At the Kusatsu rescue hospital in Hiroshima city, the pathologic group performed an autopsy on the dead body of an Atomic bomb deseae on October 13, 1945.

広島市内の草津救護病院にて病理医が、1945年10月13日に死んだ被爆者の遺体を剖検をした。内蔵などを取り出して、病理医が病理学的診断をするために観察した。草津救護病院の臨時剖検所は、県立病院救護所の組織に組み込まれた時に設置された。病理医は、京都府立大学の荒木正哉教授が担当した。写真は、79歳の女性が広島原子爆弾に被爆して、10月12日に被爆死した。その遺体を剖検するために、廿日市工業学校の救護所から廻送された。
 原子爆弾が投下された直後は、とても厳しい状況下で医療救護だけでなく、原子爆弾の災害の調査がされた。その過程で、多くの資料、病理標本、記録などが蓄積された。最も早期に原子爆弾の被爆による病理学的な所見は、陸軍省調査団の山科清が早期に死亡した被爆者の病理解剖の標本と詳細な記録である。陸軍軍医学校の山科清は大本営調査団らと、原子爆弾が炸裂した8月6日から2日後の1945年8月8日に、広島市内に参入した。まず膨大な被爆者が似島検疫所に収容されて死亡した遺体を、山科清博士自身が自ら執刀して解剖した時から貴重な病理解剖の所見が記録された。被爆死した遺体の組織を、病理標本を作成して顕微鏡で詳細に病理診断をした。8月10日から広島沖合の似島検疫所にて剖検を始めた。8月11日から京都帝国大学調査団も参入した。東京大学の都築正男は、広島で被爆して8月24日に死亡した女優を急性放射能症と診断して、世界初に原爆症の第1号をカルテに記載した。文部省学術研究会議の原子爆弾災害調査研究特別委員会の医学部門の責任者として8月30日に広島市内に入り、現地調査・被爆者救護にあたった。
 1945年8月29日から10月13日にかけて、広島医専の玉川忠雄は早期放射線で被爆死した19症例に病理解剖をした。被爆後間もない混乱の中、民心の悲嘆、動揺、不安その他の情勢から剖検は広島県衛生部の反対に遭遇した。脱毛、皮下溢血ほか前人未知の病態を呈する事例の多発から、変死体の処理という名目で許諾された。1例目は26歳の女性で、爆心地から約1.3Kmの鉄砲町で被爆して8月27日に死亡した。2例目は58歳の男性など、19例が剖検された。広島逓信病院の敷地内に工兵隊が建てたバラック小屋を改修して臨時剖検室とした。しかし、剖検記録、標本、写真等は連合軍最高司令官総司令部(GHQ)の主導による日米合同調査団によりアメリカ軍に強制的に徴収された。長期間にアメリカ陸軍病理学研究所(AFIP)に保留されて、1973年に日本に返還された。GHQは、9付き19日に原子爆弾の調査内容を日本人が公表することを禁止した。1946年2月から8月までの期限付きで、許可申請で認可したが、1951年まで日本人の研究発表は抑圧された。


Saturday, November 30, 2019

At the Ohshiba National School relief station, many of the survivors who died in the Hiroshima atomic bomb were cremated in the schoolyard. White bones were buried in the soil, and the remaining white bones were scattered around them.

広島原子爆弾の爆心地から約4.7kmにあった大芝国民学校(現在の広島市立草津小学校)は被爆した直後から臨時の救護所に転換した。広島原子爆弾が炸裂した1945年8月6日当日から引き続いて被爆者が護送されて、重篤者は収容された。8月中には約3,000人も越えた被爆者が集積した。治療も十分にできずに、多数の被爆者が被爆死した。多数の引取もいない死体は、草津国民学校の校庭で火葬をして白骨を校庭の土中に埋葬した。火葬場の周囲には、埋葬して残存した白骨が火葬場に散乱していた。
 広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂により爆心地の周辺は壊滅した。広島市内には瞬時に原爆死した被爆者の膨大な死体が散乱した。たとえ生存した被爆者には、原子爆弾から放射された猛烈な爆風や灼熱の熱線や広範囲の火災などにより、火傷や外傷などの負傷を伴って、短期間に甚大な被爆死を発生した。さらに、数週間以内に原子爆弾からの放射線の被害による被爆死が激増した。
 その死体の処理のために、生存した身内や関係者らが、広島市内の至る所で火葬して白骨化した。その周囲から行方不明の多数の白骨を集積しては土中に埋葬した。特に臨時の救護所や残存した学校や病院の付近では、被爆病死した死体を処理する火葬が連日に舞い上がった。黒こげ胴体だけの死体の判別は、ほとんどできなかった。学校の校庭の片すみを掘って、焼残りの材木を集めて火葬にした。臨時火葬場は超満員の状況であり、それに必要な燃料がなくなると、保管していた天井板まで使用して火葬作業を続けた。収容した被爆者が次々に被爆して、それを火葬する人手もたらないほどであった。 
 大芝国民学校は臨時の特設救護病院となった。広島原子爆弾の爆心地から北 2.4kmにあった。校舎が大破して、一部は焼失した。校庭に避難者があふれたため、臨時救護病院になった。8月6日は周辺は火災にかこまれ、救護に当たった者は、動かせない重傷患者を残して、一時避難しなければならなかった。しかし、火の勢いが鎮まるとともに、救護者は引き返して再び任務についた。医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人がいたが、その人たちの専門を越えた不眠不休の医療活動が、切実に必要とされた。


Tuesday, November 19, 2019

A woman who suffered severe burns from the face to the entire upper limb from the Hiroshima atomic bomb was bedridden in the first national school.

広島原子爆弾の炸裂による重度の被爆者が、広島市段原山崎町4番42号の第一国民学校に収容された。第一国民学校は爆心地から南東に約2.64kmに位置していた。鉄筋校舎により全崩壊を防いで、救護所に転用された。広島原子爆弾により北側の木造校舎は倒壊した。その他の東校舎や講堂などは、窓枠や窓ガラスが破壊された。その校舎や食堂などは全壊は免れた。被爆後に、東校舎と講堂は臨時救護所となり、1945年10月上旬まで多数の被災者を収容して救護した。6年生の国民学校初等科を終えた子どもが、2年間通った。
 1945年8月7日から20日にかけて顔面から上肢の全体にかけて、重度の火傷を被爆した女性が、第一国民学校の救護所内で寝たきりになっていた。右手指の重度の火傷を身内の女性らが処置していた。広島市内で崩壊を免れた鉄筋の学校などの建物が、救護所として転用された。連日にわたり、多数の被爆者が受診した。広島市前身となる広島市立第一高等小学校が、1932年4月1日に広島市段原山崎町に設立された。軍事主義教育の色合いが濃い「国民学校令」の施行により、1941年4月1日に広島市立第一国民学校と改組された。第一国民学校は、現在は段原中学校に転用された。
 国民学校令が1941年3月1日に公布され,同年4月1日からそれ以前の小学校が国民学校に改組した。国民学校令は小学校令を全面改正し、初等教育・前期中等教育を行う国民学校を天皇が勅令した。国民学校の目的は、「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」に要約された。「皇国ノ道」とは、教育勅語の「国体の精華と臣民の守るべき道との全体」であり、「端的にいえば皇運扶翼の道」と例えた。国民学校では、「教育の全般にわたって皇国の道を修錬」を目ざした。「初等普通教育」は国民学校の内容、「基礎的錬成」は、教育の方法を示した。


Thursday, November 14, 2019

A rescuer took care of a girl who suffered from the Hiroshima atomic bomb, who was lying on the truck bed and tried to eat rice ball.(Hiroshima)

1945年8月15日午前8時15分に広島市内に原子爆弾が投下されて炸裂した。2日後の8月10日に、爆心地から約760mの上流川町(現 胡町)にて、救援隊員が被災した少女を介抱した。トラックの荷台に横たわる少女に握り飯を食べさせようとした。救護所に収容しきれない被爆者は、トラック、列車、船などで遠方の市町村に護送された。座り込んだ救助隊員が、頭の近くに置かれたボウルからおにぎりを少女を食べさせようとした。


 上流川町で広島流川教会は、旧1886年(明治19年)より布教を開始した。太平洋戦争末期には、軍服仕立て工場になったり、牧師も工場に徴用された。広島原爆で、礼拝堂は残骸だけ残して悉く灰になった。会員は死者約75人に昇、生存者約35人で再建に取り組んだ。広島流川教会の礼拝堂の前にかかげられている黒焦げの十字架は、「被爆十字架」と呼ばれ、広島原爆の被爆によってほぼ炭化した木材となった。1995年、被爆50年を記念して前会堂正面に掲げた。
 戦後に、谷本清牧師を中心にして(谷本清平和賞を創設)、アメリカの教会・慈善団体と連携して、原爆孤児に対する精神養子運動、日本全国に訴えて回った原爆乙女渡米治療運動に熱心に取り組んだ。精神養子とは原爆で身寄りを失った子供たちの養育を、アメリカ人家庭が手助けする「親子縁組」である。アメリカに1995年治療に渡った原爆乙女約25人の内、1人は手術台の上で、2人は帰国後に悲惨にも死亡した。ヒロシマ・ピースセンターの設立して、1971年に教会は上幟町近くに移転した。

被爆十字架

Sunday, November 3, 2019

Keloids and ulcer have developed on the back and arms of this 18 years old, who suffered burns in Hiroshima 1.6km from the hypocenter.

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。爆心地から約1.6Kmで被爆した18歳の少女は、背中と上肢に火傷からケロイドと潰瘍を受傷した。被爆後の約3月後の1945年11月13日に、アメリカ陸軍によりカラー写真が撮影された。右肩から斜めに、カバンの紐の跡は無傷の皮膚のままに残存した。露出していた両上肢と背部には、火傷によるケロイドが発生した。ケロイドは彼女の顔、背中、そして彼女の腕と脚の関節に現れた。 ケロイドは関節の動きを妨げ、身体的および精神的な苦痛をもたらした。火傷後に、皮膚は再生して損傷を覆って治癒して、通常は傷跡が残る。ケロイドは、過剰に増殖する異常な瘢痕組織の不規則な腫瘤を発生した。熱放射線は人体を貫通しないため、身体の火傷部分は熱放射にさらされた部分であった。多くの場合に、身体の露出面のみが火傷して、非露出面は火傷の影響を受けにくい。
 原子爆弾の炸裂した直後に出現した急性の影響に加えて、放射線はさまざまな長期的な原爆症の問題を引き起こした。 過剰に増殖する異常な瘢痕であるケロイドが出現した。数年後、被爆者のかなりの割合が白血病または他の癌で死亡した。放射線の影響は今日でも曖昧であり継続的な研究が必要である。被爆者は常に自分の健康と後遺症を恐れた。原子爆弾の高い放射能は、被爆者の健康に壊滅的な影響を与えた。原子爆弾の炸裂により、被爆者は傷跡やその他の身体的損傷などの外傷により多くの負傷を負った。多くの負傷は爆弾の放射能によって引き起こされた。放射線は、脱毛、貧血、白血球の減少、下痢を引き起こした。その後、放射線は血液異常、男性と女性の両方の不妊、白血病、白内障、ケロイド、および多くの癌などのより深刻な原爆症を引き起こした。 


The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he was still suffering from severe burns and keloids (Bring Back the Human Being, 1982).

    The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he suff...