Saturday, October 24, 2020

On October 24, 2020, the UN Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons (TPNW) reached the required 50 states parties for its entry into force January, 22, 2021.

 国連は、2020年10月24日に史上初めて50カ国が核兵器を禁止する核兵器禁止条約(TPNW: Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons)を批准し、90日後の2021年1月22日に発効することを公表した。国連は10月24日土曜日に、50カ国が核兵器を禁止する国連条約を90日後に発行する国連条約が批准されたと発表した。反核活動家には歓迎されたが、アメリカや他の主要な核保有国は強く反対した。

 このTPNWは、2017年7月7日に193名の国連総会で賛成122票、オランダ反対票、シンガポール棄権票で承認された。賛成票を投じた国の中にはイランがあった。インド、パキスタン、北朝鮮、イスラエルの5つの核保有国と、核兵器を保有している他の4か国は、多くの同盟国とともに、交渉と条約への投票をボイコットした。

 50回目の批准日は、国連を公式に設立して国連の日として祝われる国連憲章の批准75周年にあたる。国連は核兵器廃絶を目標に平和を推進するために設立された。TPNWは国連で最高の条約である。市民社会と緊密に協力して民主主義から軍縮させる。条約は、すべての批准国が、いかなる状況においても、核兵器またはその他の核爆発装置を開発、試験、生産、製造、その他の方法で取得、所有、または備蓄してはならないことを要求している。また、核兵器または核爆発装置の譲渡または使用、およびそのような兵器を使用する脅威を禁止し、締約国に条約を他の国に宣伝することを義務付けている。批准したすべての国で発効すると、これらの要件に拘束される。
  国連事務総長のアントニオ・グテーレスは、50の国を称賛し、交渉を促進し、批准を推進する市民社会の「道徳的活動」に敬意を表した。国連は、1月22日に発効した条約は、「核兵器の使用による人道上の壊滅的な結果に注意を引くという世界的な運動の頂点に達して、核爆発と核実験の生存者への賛辞であり、その多くの国はこの条約を提唱したと述べた。この条約は国連の軍縮の最優先事項であり続ける核兵器の完全廃絶に向けた有意義な提言を公表している。核兵器がもはや存在しない日だけ、核兵器が完全に安全になることは明らかである。それは簡単ではなく、多くの障害がある。配備された核弾頭、ミサイル、爆撃機を制限する新戦略兵器の削減条約の更新に関するアメリカとソ連の協議や来年のTPNWの再検討会議など、すべて同じ方向に収束し、最終的な目的は、核兵器のない世界を持つことでなければなりません。
 2017年のノーベル平和賞を受賞した核兵器廃絶国際キャンペーン(International Campaign to Abolish Nuclear Weapons: ICAN)の事務局長であったベアトリス・フィンは、この瞬間は、広島と長崎への恐ろしい攻撃から75年が経ち、核軍縮を基礎とした国連条約の創設である。TPNW を批准した50か国は、核兵器は不道徳であり、違法であるという新しい国際条約を設定する真のリーダーシップを示した。1945年の広島原爆投下の生存者であり、この条約の熱心な運動家であるサーロー節子は、私たちが50回目の批准に達したことを知ったとき、私は我慢できない喜びがあった。

  1970年に発効した核不拡散条約(NPT: Traety on the Non-Proliferation of Nuclear Weaptons)は、5つの核保有国を含めて、核兵器の拡散を防止し、核兵器を廃絶することを目的として、核兵器を禁止することによって、核不拡散条約を弱体化させる条約ではない。核廃絶が核不拡散条約の最終目標である核不拡散条約は、核兵器が5つの元の兵器力を超えて拡散するのを防ぐことを目指した。非核署名国は、核軍縮に向けて動くという5大国のコミットメントと引き換えに核兵器を追求しないこと、非核国がエネルギーを生産するための平和的な核技術を保証することを要求した。 
 アメリカからのTPNWに対する書簡では、5つの元々の核保有国(米国、ロシア、中国、英国、フランス)とアメリカのNATO同盟国は、統一して条約の潜在的な影響に反対している。TPNWの核兵器禁止条約は、世界的な核不拡散努力の要と考えらた半世紀前の核不拡散条約に、検証と軍縮の時間を遅らせる危険性がある。TPNWは、国際社会では分裂しており、今後も分裂し続け、コンセンサスに基づく進展の唯一の現実的な見通しを提供する既存の不拡散と軍縮のフォーラムの分裂をさらに定着させる危険がある。TPNWが、差し迫った拡散に対処するために協力する核保有国の能力を狂わせることが許されたら、それは残念なことであると批判した。

 


Friday, October 16, 2020

A twenty-seven-year-old woman (Center), microcephaly Victim, during simple manual work at a home for the mentally disturbed near Hiroshima.

 1950年代に原爆傷害調査委員会(ANCC)の研究が、原爆からの放射線に被曝した母親の妊娠と子供に与える影響を公表した。知的障害を伴う伴う異常に小さな頭である原爆小頭症(A-bomb Microcephaly)を出産した。子宮内の放射能の暴露により、推定約7週間の妊娠時点で小頭症が胎児に発症した。特に、長崎原子爆弾の爆心地から約1.2km以内の距離で露出して被爆した。子供は全身の成長の遅れと小頭症を模となった。広島と長崎の妊娠の調査は1948年に始まり、6年間続けられた。期間中に、約76,626人の新生児がABCCによって検査された。

 原子爆弾の爆心地から約2,000メートル以内にいた母親の妊娠の結果は、アメリカGHQが本国に戻る直前にようやく調査が開始された。放射線障害の兆候を示した母親では、所見を示さない母親と比較して、周産期に有意な頻度の増加が見られた。子供たちの、知的障害を伴う異常に形の小さな頭である小頭症を伴った。乳児期の流産、死産、死亡の発生率は約43%で、放射線を受けていない胎児の対照群の発生率の約7倍であった。放射線の影響だけで、発達中の脳の著しい脆弱性が明らかになった。ニューロンの生成が増加し、未成熟なニューロンの皮質機能部位への移動が発生する発達の時間に対応した。出生時に最も一般的な欠陥は、無脳症、口唇裂、内反足、多指症および合指症であった。異常は、594人の奇形乳児のうち445人(75%)を占めた。

 妊娠初期に妊婦が高線量の放射線に被曝すると、赤子の頭のサイズが異常に小さくなり、精神的および身体的障害を引き起した。原子爆弾による小頭症を伴う。日本の厚生労働省は、1967年に小頭症の約22人の患者に公式に近距離早期胎内被爆症候群と認証された。偏見に直面する恐れを感じ、社会との境界に引きこもった。社会では「原爆はうつる」と陰口をたたく人もいた。きのこ会は1965年に結成されて、小頭症の被爆者は約15人である。原爆小頭症の母親は高齢となり全て死亡した。 

Sunday, October 4, 2020

At the ceremony to hand over the ashes at the Hiroshima Atomic Bomb Memorial Tower, relatives held the bone box on their knees and held a memorial service.

広島原子爆弾が1945年8月6日に落下して炸裂した直後には、被爆者の死体はように物体のように取り扱われて処理された。錯乱した被爆地の中で、死後処置しなければならない死体も数万人にも達した。軍隊や民間市民が、死体を焼跡や川辺から広場や路地に運んでは、丸太のように積み重ねて焼却した。その時に、その一部に警察が付き添って検死調書を作成した。性別や年齢などを推定できるだけであった。わずかな氏名が判明しても、瓦や髪の破片に記載して、死体の付近に置くだけであった。その後には焼却して処理された。供養塔に集積された遺骨も大部分は、氏名が不詳の無縁仏になった。そのほかに約2,000体もの氏名がわかった遺骨も残存していた。原爆供養塔のコンクリートの地下室に、骨壷が入った骨壷に積み重なった。1955年に広島市が中心となり、老朽化した遺骨堂を改築し、各所に散在していた引き取り手のない遺骨もここに集め納めた。広島市は、氏名が判明しながら引き取り手のない遺骨の名簿を毎年公開し、遺族を探しています。1955年に2,432柱あった遺骨のうち、約824柱の遺骨は引き取り手がなく、原爆供養塔に潜在している。

 1955年に、広島市は氏名の判定している遺骨の名簿を、新聞紙上に公表した。約70人の引き取り手が出現した。1968年には、広島東警察署で残存していた検死調書から、原爆供養塔内の納骨名簿、広島第1・2陸軍病院の被爆死者の名簿、戦災収容者名簿を、広島平和記念館で公開して、縁故者を求めた。1968年の遺骨氏名の公表で、広島原子爆弾が炸裂して23年間が行方不明の中学生であった息子の名前を発見して、母親は悲鳴を上げて慟哭した。引き渡された骨壷の遺骨は小さくわずかであった。担当の係官に、詰め寄り確認した遺骨の経緯を問い合わせた。1968年8月1日に、広島原爆供養塔の前で、縁故者に遺骨の引き渡し式典が挙行された。骨箱をひざの上にしっかり抱え込んで供養式をした。遺骨を拝受した縁故者は、多くの縁故者が目頭を抑えながら、慟哭した。 

 


 

Friday, September 25, 2020

A-bomb survivors of the Hiroshima atomic bomb were receiving outpatient treatment on October 6, 1945, at a rescue camp in the Fukurocho National School, where the hypocenter remained about 460 meters southeast.

広島原子爆弾の投下して炸裂により、被爆者が袋町国民学校に救護された。被爆者が1945年10月6日に、袋町国民学校で外来治療を受けていた。わらのマットが敷かれて、ロープで蚊帳を引き上げて仕切って、外来患者は救護された。爆心地から約460mの袋町国民学校救護所には、原爆症の治療を受けるために並ぶ被爆者の列は後を絶たなかった。袋町国民学校の1階に急造の外来診察室が設置されて、窓はまだムシロで、荒縄で蚊帳を釣り上げて、ハエと蚊などを避けた。蚊帳の中に、入院患者を収容していた。しかし、多くの被爆者たちが死亡して、生き残っても、原爆症の後遺症に苦しめられた。

 1873年から開校した袋町国民学校は、広島原子爆弾の爆心地から南東に約460mにあった。8月6日に登校していた児童と教職員の約160人が重度に被爆してほんどはど一瞬で原爆死した。すべての木造の校舎は倒壊して焼失した。第二次世界大戦の前に鉄筋コンクリートで作られた西校舎だけは、広島原爆投下した後も校内で唯一の建物として残った。外観だけ留めた西校舎は、被爆直後から救護所として使われた。残存した袋町国民学校は10月5日から救護所が整備されて、日本医療団病院として、袋町救護病院が発足した。広島市内の救護所も合計7カ所に整備された。救急臨時救護所は、戦時災害保護法に基づいては2カ月間は運営された。10月5日時点で11ヵ所で、入院患者は約500人と入院患者は約1,200人に達した。

 家族や知人が、被爆者の消息を求めて西校舎に、連絡手段の代わりに伝言を壁に書いた。階段の壁面には、チョークで被爆者の消息を尋ねる多数の伝言が残されていた。2000年に、西校舎の建て替えのために解体した時に、救護所であった壁の漆喰や黒板から多くの被爆伝言が発掘された。2002年に西校舎の一部が、平和資料館として残存されている。袋町国民学校は、木造校舎は全焼全壊するも、鉄筋コンクリートの西校舎だけは倒壊だけは免れた。救護された被爆者は、白壁に焼跡の消炭で、「ミチコどこへ行った、母が来た」というような肉親を探し求めた多くの跡が残っていた。被爆者の書き置きが、救護所の壁の左の上部に残った。当時救護所として利用されていた校舎の壁や黒板に、家族などの行方を捜す多くの人が伝言を書いた。学校近くの病院に勤めていた娘を探す母が、「田中鈴江 右ノモノ御存知ノ方ハお知らせ下さい」と書き残している。「高一 瓢文子ガ火傷シテ・・・治療ヲ受ケテヰマス・・・」と担任が、被爆した生徒を伝言した。






 

Saturday, September 19, 2020

Victims of the atomic bomb attack of 6th August sit in a makeshift hospital in a damaged bank building in the centre of Hiroshima.

広島原子爆弾で自宅を焼失して被爆した夫婦が、荒廃した銀行のビルの地下室に避難して居住した。つくろいものをする主婦と力を失ったように腰をおろす主人。婦人は熱線をあびて顔面を痛々しい火傷をした。レンズに向けた悲しげなまなざし。松葉杖が痛ましい。夫婦のシャツの上には多数のハエが集る。爆心地付近の鉄筋の建物は少なく、焼け残ったのは紙屋町の広島銀行、三菱商事、野村商亊のビルのひと棟が残っていた。1945年9月中旬にライフ誌のアメリカ軍従軍カメラマンのアイヤ・マン(Jay Eyemann)が撮影した。

 広島原子爆弾が炸裂した8月6日直後には、緊急的に約11ケ所以上の救護所が開設された。その後1週間以内に広島市内では約53ケ所以上に達した。被爆者の集結場を救護所に指定した。被爆当初に、具体的な救護所や救護活動の詳細な記録は見当たらない。大病院からテント救護所や地下室救護所など格差が様々であった。『戦災誌』では被爆後1週間以内に日本銀行広島支店と1週間以後に勧業銀行跡が、残存した建造物内の救護所と記載されている。広島市内と市外で、約249ケ所の救護所が開設された。市内の救護所は次第に機能の限界を越えて、被爆者は市外へと避難した。

 原子爆弾から生き延びた被爆者は癌ややその他の病気で苦しんだ。アメリカ軍が広島と長崎に投下した原子爆弾により、被爆者は危険な量の放射線に被爆した。被爆した犠牲者の骨を調査すると、9.46グレイ(Gy)ものの放射線を吸収していた。癌に対する放射線治療では、腫瘍の局所領域に2〜3Gyを照射している。放射能の曝露のために、広島と長崎の多くの生存者が癌に苦しんだ。アメリカ軍が投下した原子爆弾から約2年後に、白血病の割合は子供たちの間で急上昇した。その約10年後には、癌の発生率は中壮年者の間で急上昇した。広島と長崎の癌患者の約10%は、高濃度の放射能の被爆から原爆症を発症した。 

 

Saturday, September 12, 2020

The closer to the hypocenter of the atomic bomb, the higher the mortality rate and the incidence of intellectual disability in the fetus exposed to the atomic bomb radiation in the mother's body from fetal to infancy.

原子爆弾が炸裂時に、母体内にいた胎児も被爆して、様々な影響を受けた。その中で被爆によって、多くの妊婦が死亡して、胎児の死亡、胎児の流産も認められた。妊娠中に被爆して出産した子供は、体内被曝児と呼称された。母体内で被爆した子供の人数は不詳である。1960年にABCC(原爆傷害調査委員会: Atomic Bomb Casualty Commission)は、体内被曝時の人数は、広島で2,310人、長崎で1,462人で、合計3,872人と報告した。

 長崎市内の爆心地から0〜2km以内の妊婦96人と4〜5kmで被爆した妊婦の113人とを比較して経過観察した。 0〜2kmで被爆して放射能症が発症して妊婦は、胎児死亡率は約23.3%、新生児の死亡率は約26.1%、知的障害の発現率は25%であった。4〜5kmでは胎児死亡率は2.7%、新生児の死亡率は3.6%、知的傷害の発現率は0%であった。爆心地の近いほど死亡率と発現率が急上昇した。

 長崎原子爆弾の爆心地から0〜2km以内で被爆して急性放射能傷害があった妊婦のうちで、7人が胎児の死亡、6人は新生時以降に死亡、残る16人の内でのうち4人に知的障害を伴った。知的障害は特に小頭症を合併した。頭囲が平均値に比較して、2標準偏差以上に 狭小であった。3標準偏差以上に狭小であるほど、知的障害が重度で、社会生活機能が低下した。

 広島原子爆弾の胎児被爆児では小頭症が48例と長崎原子爆弾で約15例を認定された。知的障害を伴う重度の小頭症は、約3〜15週間に被爆した胎内被爆時に多く発現した。被曝線量の増加に、発現率が相関した。特に広島原子爆弾では、小頭症児の母親が比較的に低線量閾値でも発現した。広島原子爆弾による被爆した初期の放射線量に中性子線が多いことが想定された。



Sunday, September 6, 2020

August 12. An emergency relief station set up at the Fukoku Seimei building transfer truck.

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて広島市内で炸裂した。生命保険を取り扱う富国生命の広島支店の富国館のビルが残存して、その周辺に緊急救護所が設置された。1945年8月12日には、特に重症の被爆者をトラックの荷台上に横に並べて、富国生命の周辺の緊急救護所に搬送された。重度な火傷に対して、ガーゼや布で応急処置をされた。救護隊員は搬送の準備をしながら、心配そうに見守った。

 広島富国館は、広島市袋町に1936年に建設された地上7階、地下1階のビルであった。その当時では、広島市内で最も高層ビルであった。ビルには、保険会社である富国徴兵保険や、レストランの精養軒などが入館していた。1945年6月、NTT西日本の前身である広島電信局が地下から地上5階までを使用した。空襲警報の伝達や電報、電話業務をしていたために、日本軍部が頑丈なビルに移るよう要請した。爆心地が約330mの富国館の建物の内部は焼き尽くされたが、外部は倒壊しなかった。強烈な爆風によって、鉄骨の柱が大きく湾曲した。原爆資料館では、広島原子爆弾で電信局では約117人中で約107人が被爆死して、約10人が生存したと推定された。強固な鉄筋ビル内部で、熱線の直射を避けて、致死量の放射線被爆を免れた。戦後は富国ビルは、改修を経て1982年に解体されるまで使用されて、同じ場所にフコク生命ビルが建設された。

 近隣の袋町国民学校は木造校舎は全焼して消滅したが、広島富国館が防御壁となり、コンクリート3階の西校舎は外形のみを残して内部の被災を免れた。被爆直後から、袋町西校舎は避難所と救護所となり、階段室の壁面には被爆者の消息を知らせる多くの伝言が残っている。1999年に被爆した西校舎を建て替える時に、壁に記された文字が発見された。2002年4月に、袋町小学校の西校舎の一部が、広島市立袋町小学校平和資料館が開設された。

 


The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he was still suffering from severe burns and keloids (Bring Back the Human Being, 1982).

    The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he suff...