Saturday, December 10, 2022

Elderly woman crawling. The location was 1.2km south of ground zero on the high way in front of the Mitsubishi Steel Mill, August 10, 1945, the nextday after Nagasaki Atomic Bomb explosed.

長崎原子爆弾の爆心地から南に約1.2kmの三菱製鋼前の県道上で、長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日昼頃に路上を老婆が這っていた。途中で木製の杖にすがって立ち上がろうとするも、すぐに膝を地面に着きながら徘徊した。長崎市茂里町と川口町の間の県道上の地点であった。

 アメリカ大統領のハリー・トルーマン(Harry S. Truman)は、1945年8月9日午後10時(ワシントン時間)に、人類史上最初の原子爆弾の投下をホワイトハウスからラジオ演説を行った。この時には、すでに2発目の原子爆弾が長崎市で約11時間前の8月9日午前11時2分に投下されて、炸裂していた。演説は非常に長く、そのほとんどがドイツ軍に戦勝した演説であった。

 長崎原子爆弾を投下して炸裂した8月9日に、ラジオ演説で、人口約25万5千人ほどの港町で軍事基地がある広島市と表現した上で、人類最初の原子爆弾の投下して、アメリカ軍の若者の殺害をできる限り避けたと語った。

「最初の原爆が軍事基地である広島に投下されたことは、世界に注目されるでしょう。私たちはドイツ軍との発見競争に勝利した。私たちは、戦争の苦しみを短くするために、何千何万というアメリカの若者の命を救うために、それを使用した。私たちは、日本の戦争する力を完全に破壊するまで、それを使い続けるだろう。」(The world will note that the first atomic bomb was dropped on Hiroshima, a military base. We won the race of discovery against the Germans. We have used it in order to shorten the agony of war, in order to save the lives of thousands and thousands of young Americans.We shall continue to use it until we completely destroy Japan's power to make war.: https://www.presidency.ucsb.edu/documents/radio-report-the-american-people-the-potsdam-conference) 

 広島原子爆弾は軍事施設から遠く離れた市街地に8月6日午前8時15分に落下して炸裂した。広島市で死亡した人の約85%は民間人であり、約14万人の男性、女性、子供のうち約12万人が犠牲になった。原爆は街の10分の9を焼失させ、全人口の半分以上を殺した。




Sunday, December 4, 2022

Daniel McGovern of the U.S. Air Force's 1st Film Unit shot footage of Nagasaki atomic bomb survivors shortly after the bomb was dropped. He filmed a woman who had developed massive keloids after being exposed to the bomb, starting with her face and continuing all over her body.

原子爆弾によって焼かれ、死傷つけられた犠牲者の被爆者たちの恐ろしい苦痛を、原爆映画が映し出した。アメリカ空軍の第1映画部隊のダニエル・マクバーン(Daniel McGovern)は、長崎原子爆弾が投下された直後に、被爆者の映像を撮影した。顔面から全身を被爆して多量のケロイドを発症した女性を撮影した。マクバーンは、アメリカに戻ると、秘密のコピーを作成して、原爆記録の映像をアメリカ軍の抑圧と抹消から救った。原子爆弾の投下後の5ヶ月間の撮影期間中も、毎日身体の両側から血の混じった膿が流れた。真っ赤になった背中を撮影する前に、看護婦が拭いた。撮影前に、冬なのに毎日ウジが湧いて取るのも大変だった。撮影中の照明が熱くて、何度でも気絶するかと思った(谷口稜曄)。

 アメリカ軍占領下の沈黙の後に、原子爆弾の映画製作者は、日本映画社(日映)と共同して、保存された映像の共用を開始した。1967年に日本政府に返還された複写映像は、文部省と仁科研究所の手に渡り、隠蔽された。原爆映画のフィルムは、全人類のために米国国立公文書館に寄託された。米国国立公文書館によって保護されると、世界中の映画や映画製作者たちは、映像を共有し始めた。原子爆弾の投下の表現に近づけるために、被爆地に直行し、原子爆弾を表現する映像を共有した。被爆地の映像は、制作者と視聴者の双方を強く惹きつけた。

 世界中の映画製作者たちは、米戦略爆撃調査団報告書(USSBS)が撮影した『広島・長崎の原爆の影響』を記憶から記録に変えた。日映が広島・長崎の死体から露出させた実物の映像は、あらゆるメディアが地球上に散らばった。核兵器が生産され続けるも、人間への攻撃に使われない理由の一つは、映画が原爆の映像を、一人ひとりの意識に沈着させたと考えたい。日映製作者の4人の映画作家は反抗を継続し、完結させる抵抗行為をした。日本市民は、映画に対する法的批判と文部省の権力による弾圧を回避する運動を始めた。1980年代には、『広島・長崎の原爆の影響』にてUSSBSが撮影したすべてのカラー映像を、寄付を募って米国国立公文書館から購入して日本へ送還した。日映のフィルムを購入した後に、地方局ではノーカットのテレビ放送を手配した。資料を返還する過程で、独自の映画を制作し、原爆の本も出版した。



Saturday, November 26, 2022

広島原子爆弾による放射線被爆の影響で白血球の異常や減少が起こる症状が報道された。被爆者が血液検査を求めて広島日赤病院を受診した。医師が、被爆者の耳介から血液を採取した。医師が、被爆者の血液像を顕微鏡から覗いた。脱毛で坊主になった若い女性の被爆者が、顕微鏡で血液像を観察する医師の表情を真剣に見つめていた。



 広島赤十字病院は、爆心地から約1.5kmの広島市中区千田町一丁目に建立された。被爆した翌月の1945年9月から建物の修復工事を開始した。爆風により鉄製の窓枠は内側へ押曲げられ窓まどガラスは砕け散ったままであった。1945年以降から、被曝した幼児を含む白血病などのがん患者が増加し始めた。原子爆弾の恐怖体験とケロイドは、被爆者の大きなストレスをかけた。



 戦傷病者とその救護にあたる人や施設を攻撃から守る目印として、赤十字マークが定められた。被爆後、広島赤十字の旗や看板は、焼け残った市内の病院、救護病院となった検疫所や国民学校にも掲かかげられた。被爆者は病院や救護所を受診して、原子爆弾が人体に及した被害の診察や治療を受けた。その記録の写真等は占領軍によって接収された。1973年5月に複写フィルムとなって日本に返還された。

 太平洋戦争が終結した1945年8月15日直後からの混乱の中で、アメリカ軍は原子爆弾の関連資料をアメリカ軍(AFIP)に接収して約28年間も極秘に保管した。1973年5月に日本に約2万点もの資料が返還された。主に写真、病理解剖、病理標本が返還された。写真は約1,877枚(カラー写真259枚含む)であり、きのこ雲、主要建造物、原爆閃光影、被爆者、救護所、市内の様子などである。病理標本は、パラフィン固定標本953点、ホルマリン標本681点、顕微鏡スライド標本1,769点が返還された。病理解剖の英語翻訳記録の約140事例の詳細が返還された。

  

In mid-September, 1945 the newspapers reported that the effects of radiation can cause an abnormal drop in the number of white blood cells, so some bomb survivors requested blood testing. This patient is seriously watching the expression on the face of the doctor as the latter looks at a microscope.

 広島原子爆弾による放射線被爆の影響で白血球の異常や減少が起こる症状が報道された。被爆者が血液検査を求めて広島日赤病院を受診した。医師が、被爆者の耳介から血液を採取した。医師が、被爆者の血液像を顕微鏡から覗いた。脱毛で坊主になった若い女性の被爆者が、顕微鏡で血液像を観察する医師の表情を真剣に見つめていた。



 広島赤十字病院は、爆心地から約1.5kmの広島市中区千田町一丁目に建立された。被爆した翌月の1945年9月から建物の修復工事を開始した。爆風により鉄製の窓枠は内側へ押曲げられ窓まどガラスは砕け散ったままであった。1945年以降から、被曝した幼児を含む白血病などのがん患者が増加し始めた。原子爆弾の恐怖体験とケロイドは、被爆者の大きなストレスをかけた。



 戦傷病者とその救護にあたる人や施設を攻撃から守る目印として、赤十字マークが定められた。被爆後、広島赤十字の旗や看板は、焼け残った市内の病院、救護病院となった検疫所や国民学校にも掲かかげられた。被爆者は病院や救護所を受診して、原子爆弾が人体に及した被害の診察や治療を受けた。その記録の写真等は占領軍によって接収された。1973年5月に複写フィルムとなって日本に返還された。

 太平洋戦争が終結した1945年8月15日直後からの混乱の中で、アメリカ軍は原子爆弾の関連資料をアメリカ軍(AFIP)に接収して約28年間も極秘に保管した。1973年5月に日本に約2万点もの資料が返還された。主に写真、病理解剖、病理標本が返還された。写真は約1,877枚(カラー写真259枚含む)であり、きのこ雲、主要建造物、原爆閃光影、被爆者、救護所、市内の様子などである。病理標本は、パラフィン固定標本953点、ホルマリン標本681点、顕微鏡スライド標本1,769点が返還された。病理解剖の英語翻訳記録の約140事例の詳細が返還された。

 

Saturday, November 19, 2022

Three A-bomb orphaned brothers were left behind in the Nagasaki city after the Nagasaki atomic bomb exploded. The eldest of the atomic bomb orphans wandered barefoot with his two younger brothers in a wooden baby carriage.

 長崎原子爆弾の炸裂した長崎市内に3人の原爆孤児と思われる兄弟が取り残された。原爆孤児の長男が、2人の弟を木製の乳母車に乗せて、1945年10月頃に素足で徘徊していた。原爆で両親を亡くした子どもを原爆孤児と呼称した。原爆により約7,000人の原爆孤児が発生したと推測された。

 アメリカ軍海兵隊第5師団所属のカメラマンで当時23歳のジョー・オダネル (Joe O’Donnell, 1922-2007)軍曹が、長崎原子爆弾に被災した長崎市内で、1945年10月頃に撮影した私的写真である。彼は、1945年9月から1946年3月まで、日本に駐留した。アメリカに帰国後に、全ての原爆ネガを自宅屋根裏部屋のトランクに閉じこめて、約43年間封印した。

 1990年頃に彼は軍曹として撮影した原子爆弾の軍機密写真の封印を解いた。その公開後に、原爆写真を検証するも、場所も個人も特定は困難となった。アメリカ国内から彼は非難されて追い込まれて、離婚に繫がった。1993年に福島県若松栄町の原爆写真展で坂井貴美子と出会い、1997年に再婚した。彼女と三男の息子のタイグ・オダネル(Tyge O’Donnell)らは、ジョーの遺志を継いで、原爆の出版や写真展などを展開している。

 ジョーが撮影した有名な「焼き場に立つ少年」も戦災孤児であった。「進駐軍が こがん殺生ばしてしもたか 焼け野原にしたちゅうことに、あっちに一ヶ月 こっちに一ヶ月ちゅうてですね 住みながら ずーっととにかくもう裸一貫ですからね もうなんもなかですからね。着替えもなんもなし。下は履くもんもなしですね。もうほんと。」と少年頃を回想した。



Saturday, November 12, 2022

n late July 1987, a photograph by Eiichi Matsumoto, a former Asahi Shimbun photographer who took pictures of Shukkei Garden immediately after the atomic bombing of Hiroshima, was discovered, and the names of those identified were listed on the grave markers as, from left to right: 5 grave victims, 38 in the middle, and 21 on the right.

広島藩主の浅野泉邸であった縮景園は、爆心地から北東約1.3kmの縮景園(広島市中区)は崩壊して灰塵に帰した。広島原子爆弾が投下されて炸裂した1945年8月6日から避難した被爆者で満杯となった。しかし、次々に被爆者が縮景園で死亡した。被爆直後から、数多くの被爆者が縮景園似゜避難した。治療もほとんど受けれないままに死亡して死体が、縮景園内に集団舞うそうされた。死亡した被爆者の死体を園内の小高い丘の上に集団埋葬した。その埋葬した地点に墓標となる木板の標札を掲示した。1945年10月末時点の標札には、氏名が判明者として、左から被爆死者の墓5人、中には38人、右には21人と標札に記載された。松の大木は、広島原子爆弾の爆風と熱戦によって、枝や葉が剥ぎ取られて、ハゲ木となった。

 縮景園は、江戸時代初期の1620年に広島藩主・浅野長晟が築庭され、戦前は泉邸と呼称された。太平洋戦争中に、縮景園は避難場所に指定され、原爆投下直後、おびただしい被爆者が押し寄せた。園内の森林は燃えだし、火災が迫って来た。猛烈な熱線で前の川に飛び込み水死した。縮景園の中で次々と被爆死して、死体は荼毘にもされず埋葬された。その後の発掘調査で数千点の遺骨片が発見され、1987年7月下旬に、広島原子爆弾の被爆直後の縮景園を撮った元朝日新聞社カメラマンの松本栄一の写真が発見された。広島県教育委員会が1987年7月31日に写真を手がかりに、埋葬された原爆死没者の遺骨を発掘した。遺骨の発掘調査を行って、数千点の骨片を収集して、8月6日に原爆供養塔に納骨した。1988年3月19日、縮景園の遺骨が発掘された地点に慰霊碑が建立された。



Saturday, November 5, 2022

The Mitsubishi steelworks near the detonation point was destroyed in the blast of Nagasaki Atomic Bomb, where a dead horse lies outside the steelworks.

 長崎原子爆弾が、1945年8月9日午前11時2分に投下されて爆心地の長崎市松山町171で炸裂した。翌日の8月10日お昼頃に、左手に爆心地から南に約1.1から約1.2kmの長崎市茂里町に、三菱製鋼所第一工場鍛錬工業があった。右端のコンクリート建ての建物は三菱製鋼所第二工業事務所があった。長崎原子爆弾の爆心地から1km付近は瓦礫と焼け野原となり、三菱製鋼所第一工場鍛錬工業は、長崎原子爆弾の爆風と熱線で全焼して破壊され崩壊した。その隣の崩壊した第二工場の鉄骨が、あめのように波打っていた。地下の魚雷工場は比較的無傷で残った。製鉄所の外には死んだ馬が県道に横たわっていた。その背後に、長崎市電の線路が走っていた。

 爆心地に近い三菱製鋼株式会社長崎製鋼所では、従業員や養成工、動員学徒、教員など約1,400人が死亡した。鋼板や航空機の部品などを製造していた工場もほぼ壊滅状態となり、機能は全廃して、折れ曲がった鉄骨や機械設備等の残骸だけが残存した。

 長崎原子爆弾の炸裂に伴って生じた猛烈で強力な気圧変化は、爆発直後異常な速さで衝撃波となって広がり、物を破壊し、押し潰した。またそれと同時に強い爆風が起こり大被害が発生した。爆心地から約1kmで、最大風速は秒速約160mにも達した。特に熱傷を及ぼしたのは、爆発後の約0.3秒から約3秒までの間の赤外線であった。地上物質の表面温度は、長崎原子爆弾の直下では恐らく約3,000~約4,000度にも達したと推定された。



The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he was still suffering from severe burns and keloids (Bring Back the Human Being, 1982).

    The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he suff...