Saturday, April 8, 2023

The Chugoku Shimbun building, about 0.9 km east of the hypocenter of the Hiroshima atomic bomb, burned down and collapsed; on August 8, a streetcar collapsed in front of the Chugoku Shimbun headquarters building, where boy suicide attackers from the Akatsuki Unit were assembled.

 広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した爆心地から東に約0.9kmの中国新聞のビルは全焼して崩壊した。2日後の8月8日には、中国新聞本社ビルより手前に、路面電車が崩壊していた。その周囲に、第10教育隊所属の暁部隊の少年特攻兵が集合していた。その遠方には爆心地から東方約1.2kmに東警察署が白い建物が残存した。広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、東警察署には翌日の8月7日には、広島市の防衛本部が設置された。2日後の8月8日には、東警察署に8月7日に設置された臨時広島県庁に、広島市民が殺到していた。広島県庁は全壊して、出先先などを含めて犠牲者は最終的に約1,131人に上った。焼け残った下柳町(現中区銀山町)の東警察署を臨時県庁とした。

 中国新聞は1945年8月6日の原爆投下で、爆心地から東へ約900メートルの広島市上流川町(現・中区胡町)に位置した。中国新聞社の本社ビルは全焼し、印刷機(輪転機)や活字、新聞用紙などを焼失した。被爆直後に,中国新聞社の建物は外壁のみをとどめ、輪転機を含めた設備機材も全滅して焼失した。輪転機一台と付属資材を広島市内東の温品に疎開させ、業務再開の重要な手段となった。社員の約3分の1にあたる約114人が犠牲になった。8月6日夕方には、他新聞社の支援による代行印刷を決定した。当日は電話も電信も不通になった。広島市宇品にある陸軍船舶司令部にて通信網を使用して、再発行を3日後の8月9日に再開できた。

 広島市宇品の日本陸軍船舶司令部は、原子爆弾が投下された8月6日午前8時15分から約35分後の午前8時50分頃に、暁部隊の少年兵の全隊員を被災地に向かわせて、救援活動を始めるように命令した。爆心地から約4kmの宇品の暁部隊船舶隊が、黒く焼け焦げ、水ぶくれ、焼け縮み、水膨れの死体を、両端の道片に並べた。灼熱で死体にウジがわき、焼けあとの臭いと異様な悪臭になった。無惨にも、暁部隊の少年兵から多くの原爆二次被爆による原爆病の犠牲者が発症した。



Saturday, April 1, 2023

After the Hiroshima atomic bomb was dropped on August 6, 1945, an outpatient examination room on the first floor of the Hiroshima Telecommunications Hospital was photographed around October 8, 1945, when an average of 300 A-bombed patients flooded the hospital each day.

 広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されてから、10月8日頃には広島逓信病院(Hiroshima Posts and Telecommunications Hospital)には1日に平均300人の被爆患者が殺到した1階の逓信局の外来診察室が撮影された。8月8日から広島逓信局が疎開した1階の畳で約100枚を、被爆患者を収容するベッドに活用した。広島逓信病院の逓信局1階と焼上した2階が診察室と病室になった。広島逓信病院が収容する被爆患者数は、平均約220人に達した。終戦の日の8月15日までに約66人が被爆死した。

 広島逓信病院は、広島原子爆弾の爆心地からの距離は北西西約1.37kmで、現広島市中区東白島町19番16号に所在した。原子爆弾の爆風が窓を吹き飛ばし、鉄筋コンクリートで倒壊は免れた。近隣からの類焼などにより、特に2階は大部分は全焼した。新館は特に大きな窓が特徴で、爆風で窓枠が飴のように曲がってしまった。

 広島市内の医師や医療関係者は、何も知らない放射線被爆や従来の外傷にもほとんど手を出せなかった。病院は、ほとんどが破壊された地域にあり、約9割以上の医療関係者が被爆の瞬間に原爆死した。医療機器や医薬品など、被爆患者を治療する必要な資材は破壊された。原子爆弾の炸裂から数日たっても放射線は危険なレベルにあり、傷を負わずに済んだ被爆者が、突然に髪が抜け、鼻血が止まらず、臓器の大量出血が出現した。1945年末には、広島市内の原子爆弾の犠牲者は約90,000人から約150,000人にまで増悪した。

 アメリカ軍の空襲に備えて、入院患者を退院させ疎開して、入院患者の被害は最小限であった。病院職員は、48人中5人が死亡(うち1人が病院内で死亡)、7名重傷、25人が軽傷の被爆した。数多くの被爆患者が広島逓信病院に押し寄せ、医療関係者は懸命な救護して、広島市内に残った数少ない医療機関として重要な役割を果たした。現在は、1995年に改装された旧外来棟の一部に被爆資料室が整備された。当初は1922年に逓信関係者に向けた広島逓信診療所として開設された。1942年に広島逓信病院(入院施設12室・30床)に改装された。


Saturday, March 25, 2023

Outpatients at an improvised relief hospital at the Shinkozen elementary school. Mid-September, 1945. Shinkozen elementary school relief station, about 3 kilometers south of the hypocenter from Nagasaki Atomic Bomb.

 長崎原子爆弾の爆心地から南へ約3kmの地点に新興善国民学校の救護所があった。被爆直後から日を追って被爆患者の患者が急増した。各地から医療関係者が派遣されて、1945年9月16日に特設新興善救護病院となった。新興善国民学校の即席の救護所には、9月中旬には、外来患者の被爆患者が殺到していた。新興善特設救護病院の外来診察室は、かつては新興善国民学校の職員室であった。9月上旬頃は、その窓ガラスは割れ、備品や調理器具が散乱していた。新興善国民学校は全壊や火災を免れていた。新興善国民学校の救護所に運ばれてきた被爆患者は、最低限の医療を受けた。その医療状態が徐々に改善されるのは、8月16日以降からであった。他の救護所も徐々に、病院の医療機関に統合されて、新興善国民学校が10月23日に統合される最後の救護所となった。

 新興善国民学校は類焼から免れて、鉄筋コンクリートで堅固で被爆直後から救護所として活用された。教室は診察室や被爆患者の病室、被爆患者の入院の場として使用された。炎天下を毎日トラックに乗って、長崎市内の爆心地方面の防空壕を調査して廻り、被爆患者を新興善国民学校に収容した。新興善国民学校の各教室とも超満員であった。独りで歩いて或は連れられて来る外来患者の被爆患者が殺到した。特設救護病院として10月初旬まで使用された。10月6日に新興善国民学校に、長崎医科大学が移管決定して10月23日に移設した。1951年12月25日に長崎大学本部と附属外来診療所が興善町35番地へ移転し、新興善小学校が復帰した。

 長崎原子爆弾が炸裂した、1945年8月9日直後に、長崎の医療体制に大きな打撃を与えた。生き残った医師や看護婦が救援活動を始めた。医療設備や物資が不足して、応急処置すらできなかった。爆心地付近の焼け野原に救援列車を走らせ、近隣の市町村の病院へ被爆者を移送した。夕方には海軍病院の救援隊が入り、夜には近隣の町から警備隊や消防隊を中心とした救援隊が到着し、被爆患者の救援に当たった。




Friday, March 10, 2023

When the Hiroshima atomic bomb exploded, a 33-year-old army officer was exposed to the bomb on the second floor of a wooden structure about 2 km from the hypocenter and developed acute otitis media and acute mastoiditis.

 広島原子爆弾の炸裂により、33歳の陸軍将校は、急性中耳炎ならびに急性乳様突起炎を発症した。被爆者は、1945年8月6日に広島市被爆の際に、爆心地より約2km離れた木造2階建の家屋の2階に、左半身を窓に向け坐した。暗緑色半袖の開襟シャツを上半身に、下半身は陸軍の将校用短袴を着した。爆発の瞬間に人事不省に陥らなかった。右側々頸部を硝子の破片で損傷し、出血が甚しく包帯にて止血した。8月7日広島市より5km離れた陸軍病院に火傷治療のため転送された。火傷部は化膿し患者は耐え難い疼痛を感じ発熱は39°Cから40°Cに及んだ。8月12日下熱後に、広島市より40km離れた他の病院に転院したが、翌8月13日より右側の耳漏が始った。被爆して42日目9月17日に九州帝国大学病院耳鼻科に収容された。

 現 症

 体格は中等大であるが筋骨の発達良好である。顔貌は苦問を呈しているが貧血性ではない。左側々頸部, 肩甲部, 上腕および脊部に火傷による瘢痕が見られた。


















  脈搏の緊張良好で90回/分に至る。火傷の訴は現在ない. 胸・腹部臓器にも著変を認めず、尿に糖、蛋白を証明しない。局所所見は鼻、咽頭 喉頭に著変を認めない。左側鼓膜はほぼ正常である。右側外耳道に濃厚な粘液性膿汁が充ちた。清拭して診ると鼓膜は発赤膨隆し、前下方に小穿孔があり、拍動性の膿汁排泄が見られた。膿汁の塗抹標本より連鎖球菌を多数証明した。血液検査所見は表示する。







 経過

 1945年9月18日 患者は頭痛を訴える。本日より肝臓製剤ヘパトーゼ3.0を1日3回食間に服用した。9月21日 右鼓膜切開施行。9月24日 中耳炎に対する適当なる処置にもかかわらず耳漏減少の傾向なくかつ患側の偏頭痛が激しく、右側乳様突起切開術を施行した。乳様突起の骨皮質に著変を認めなかったが、切開の第1撃にて濃厚なクリーム様膿汁が流出した。切開を進めると乳様洞および他の総ての蜂業は、膿汁と肉芽組織に充され蜂築隔壁は既に融解消失した。特に注意すべき点は骨質が一般に脆弱となっていた。骨性外耳道後壁の如きは腐骨の如き観を呈し除去された。鼓室天蓋に相当する部にて硬脳膜を一部露出したが、著変を認めなかった。9月27日 耳後創内及び外耳道内の膿汁貯留は多量である。9月29日 患者は向頭痛を訴え睡眠も障害されるので睡眠剤を投与した。

 1946年1月5日 耳後創内の膿汁貯留なお多く耳漏も止まないので、スルフミン3.0を1日3回食間に分服した.10月22日 耳後創内の膿汁貯留なく頭痛も消失し安眠可能となった。耳漏はなお止まない。11月20日 耳後創はほとんど治癒し耳漏も止み患者は退院した。(出典: 原子爆弾災害調査報告集、1953年5月)

Saturday, February 25, 2023

Hiroshima Communication Hospital was crowded in the outpatient rooms for a war victims with Hibakusha patients who needed treatment, just after Hiroshima atomic bomb.

 広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に落下して炸裂した。その直後から、広島逓信病院にも、原爆症の治療を求めて被爆者が外来棟に殺到した。その外来の入口には、「一戦災患者治療所」と掲示された。火勢が弱まった8月6日夕方から、多数の被爆者が広島逓信病院に押し寄せた。外来病棟には、外来待合室、手術準備室、外科診察室、化膿性手術室などがあった。1935年に広島逓信局の付属病院に外来棟が設置された。中国郵政局は、1995に広島逓信病院の外来棟の一部を、被爆資料室として改修して保存された。2018年に広島市に寄贈されて限定公開された。

 広島逓信病院は、爆心地から北北東に約1.3kmの東白島町10番10号に位置した。鉄筋コンクリート2階建ての広島逓信病院は、原子爆弾の爆風で、すべての窓ガラスが吹き飛び、近隣の弾薬庫からの炎上などにより、2階の内部はほとんど全焼した。広島逓信病院の職員約48人中に、約5人が死亡して、約25人が被傷した。病院関係者は確保された医薬品や衛生材料、食糧で、緊急的に救護した。広島逓信病院は、広島市内に残った数少ない病院として、医療と調査で重要な活動をした。

 広島原子爆弾の爆心地から約2km以内で残存したのは約1.6kmの広島赤十字病院と広島逓信病院のみとなった。共に市街中心部における医療拠点となった。約150人の重症被爆者らで、広島逓信病院は足の踏み場もなく、約50人が外庭にも散在した。被爆前の入院患者は、空襲に備えて、原子爆弾に被爆する8月6日の約1カ月前から疎開と待避して、元入院患者の人的被害はやや軽微であった。



Saturday, February 11, 2023

A Streetcar of Hiroshima Electric Railway was burned down by the Hiroshima atomic bombing in August 1945 near Nishi-Tokaichi-cho, about 700 meters west of the hypocenter, leaving only its skeleton.

 広島原子爆弾に被爆した当時の広島電鉄の市内の路面電車が、爆心地から西方に約700mの西十日市町の付近で、1945年8月に全焼して骨組みだけが残存した。本体には、肉親らが走り書きで消息を記載していた。路面電車のレール付近を、広島市民がリヤカーで家財を運搬していた。

 広島電鉄の路面電車の総台数は約123台であり、そのうち全焼あるいは大破した路面電車は約49台であり、中破および小破した路面電車は約59台であった。総計では、路面電車は約108台が被害を受けて、無傷は約15台のみが残存した。燃え上がる駅舎、黒焦げとなった車両と乗客、線路周囲には横たわり被爆死傷した被爆者が散乱した。

 広島電鉄の全従業員約1,241人のうちで、社員や家政女学校の生徒など約185名が被爆死して殉職して、そのうち家政女学校生徒が約30人が被爆死した。約266名が被爆して負傷した。市内の路面電車は、車両123両中に108両が被災した。支柱の倒壊によって架線も甚大な被害を受けた。施設の被害も大きく、爆心地の近くにあった櫓下変電所が全壊して、電柱約842本のうち約393本が倒壊した。約102,400mの架線のうちの被害は約94,350mに及んだ。バスも保有約100台のうち約68台が損傷して被害を受けた。

 広島電鉄は、1910年6月18日に広島電気軌道株式会社として設立され、路面電車は、1912年11月23日から開通した。1945年8月6日午前8時15分に広島市に投下された原子爆弾に被爆直後から、広島電鉄は、広島市・軍当局と協働して復旧作業を行った。3日後には己斐~天満町間で路面電車が復旧した。被爆した約3日後の8月9日には、爆心地から約15km離れた廿日市変電所からの電力を使って、己斐(現・広電西広島)から西天満町(現・天満町)までの短い区間ながら、市内電車の運行を再開した。9月7日には八丁堀まで至り、廃墟の広島市内中心部に路面電車が走行始めた。この時点で運行可能な車両は約10両に過ぎなかった。10月11日に広島駅まで復旧しても、約20両が運行可能であった。バスも8月8日に走行を見かけた。



Friday, February 3, 2023

Burn victims of female students of Hiroshima Women's Vocational School due to the Hiroshima Atomic Bomb were admitted at the Okawa National School for Temporary Field Hospital. The atomic bomb survivors were laid on the straw mats laid out in a classroom at the school.

 広島女子専門学校(広島女専、現在の広島県立広島大学の前身)の女子生徒の火傷患者を、大河臨時野戦病院において収容した。被爆者らは、学校の教室に敷かれたムシロの上に寝かされた。大河国民学校(現在の大河小学校)の2階には、宇品船舶司令部の部隊が常駐していた。集積された物資から、大河国民学校にも傷口に塗る油が提供された。陸軍省の第2次調査班として陸軍船舶司令部の写真班が、被爆状況や収容された被爆者を1945年8月14日から11月21日まで調査撮影をした。

 広島女子専門学校は、尋常小学校と高等女学校を終えた女子が進学する学校として、1928年に広島市宇品に開校した。広島原爆戦災誌では、1年生約160人と病弱などで動員されなかった2,3年生約20人が在校した。陸軍船舶司令部の暁部隊約60人も、宇品港で乗船を待って宿泊した。広島原子爆弾の爆心地から南南東約3.3kmにあり、学校内では被爆するも、被爆死はなかった。講堂は全壊、木造校舎も窓が割れ傾いたものの、火災は免れまた。校舎の一部は、応急救護所として使用された。市内は、大学や高等師範が焼失して、戦後約2年間は広島の学問の中心的な活動拠点を担った。

  大河国民学校は、広島市南区旭一丁目8番1号の爆心地から南東約3kmにあり、登校児童などの被爆は少なかったが校舎は半壊した。被爆直後から校舎は、被爆者の救護所となり各教室・運動場・防空壕などには多数の被爆者がつめかけた。ありあわせの油、医療品で療養が行われた。死亡者が続出し、運動場では駐屯した暁部隊兵士らが火葬した。

 第二次世界大戦後の1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約の調印から、日本国と連合国各国の平和条約の1952年4月28日に発効により、連合国による占領は終結して、日本国は主権を回復した。朝日新聞社『原爆第1號 ヒロシマの写真記録』(1952年8月14日発行)に陸軍船舶司令部の写真班の写真が掲載されて公開された。その後に、国際的には、陸軍船舶司令部の写真班の1枚が、写真雑誌ライフ(Life)に1952年9月29日号に、原子爆弾の恐ろしさをアメリカ合衆国に初公開した。



The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he was still suffering from severe burns and keloids (Bring Back the Human Being, 1982).

    The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he suff...