Saturday, June 17, 2023

This is a view of central Hiroshima about two months after the detonation of the Hiroshima atomic bomb, taken on October 11, 1945, from a police station in Kyobashi-machi, Hiroshima, as seen from a distance. The first streetcar train that operated the earliest on October 11, when the main lines were opened, was photographed near Yamaguchi-cho, Hiroshima City.

 1945年10月11日に、京橋町の警察署から遠望した広島市中心部の様子である。8月6日にアメリカ軍が広島原子爆弾を投下して炸裂により、広島市内中心部の新聞社ビルや百貨店、銀行なども破壊された。広島市山口町付近で、10月11日に最も早朝に運行した一番列車の路面電車が撮影された。広島市山口町と広島駅間が開通して、広島市内の路面電車の主要路線である広島駅と己斐、広島駅と宇品間が全開通した。広島市内の中心部は壊滅して廃墟になり、路面電車の乗客の多くは終点で乗降して、途中で下車する人は少数であった。

 広島電鉄が受けた被害は非常に甚大であり、在籍した約123両の電車のうち約108両が被災した。その約40両以上が全壊・全焼ないし大破した。広島電鉄の施設の被害も大きく、爆心地の近くの櫓下変電所は全壊して、電柱約842本のうち約393本が倒壊した。

 車両と施設に大きな被害を受けた広島電鉄の市内電車は、全線で運行が不可能となった。広島電鉄の人的被害は、従業員約1,241名のうち、死者約185名、負傷者約266名で、死者の中には広島電鉄の家政女学校の女生徒たち約30名も含まれた。千田車庫の出庫口脇に慰霊碑が建立された。

 原爆により全線運行不能となった広島電鉄市内電車ですが、生存した社員は直ちに復旧作業を始め、車両や線路、電柱や電線、橋などの状況を確認して歩いた。倒れた電柱をトラックとロープで引っ張り起こし、切れた電線を繋いで引っ張る懸命の作業を続けた。

 被爆3日後の8月9日には、爆心地から15km離れた廿日市変電所からの電力を使って、己斐(現・広電西広島)から西天満町(現・天満町)の短い区間で、市内電車の運行を再開した。軍都の広島の交通の復旧には陸軍も支援して、船舶部が持った船のマストの帆柱約300本が電柱用に提供された。復旧は被爆から1か月余り後の9月17日の枕崎台風は、広島県下に約2,012名の死者を出した。広島電鉄も天満橋と横川橋が流失した。

 社員には、被爆による原爆症を発症する者も出た。社員たちは復旧作業を続けた。己斐から始まった市内電車の復旧は、9月7日には八丁堀まで至り、廃墟の市内中心部に電車の走る音が響き始めた。この時点で運行可能な車両は約10両に過ぎず、広島駅まで復旧した10月11日でも、その数は約20両と、復旧の道のりは厳しかった。終戦後の広島の路面電車の復活が、広島市民の元気の復活に繋がった。



Saturday, June 10, 2023

On August 10, 1945, the day after the Nagasaki atomic bomb exploded, surviving Nagasaki citizens and others walked on the rubble around the bombed area near Nakamachi Tenshudo, a Catholic church about 2.5 km southeast of the hypocenter.

 長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日に、爆心地から南南東約2.5kmの中町天主堂付近の被爆地を山端庸介が撮影した。周辺の瓦礫上を、生存した長崎市民らが歩いた。中町天主堂は1945年8月9日の長崎原爆投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。長崎市に現存する数少ない長崎原子爆弾の被爆建造物の一つであった。この地域は長崎原子爆弾の炸裂後に発生した二次火災による焼失地域である。原子爆弾の熱線が可燃物に引火して潜伏して、それが後に自然発火して大火災に発展した。残った塔や外壁を利用して1951年10月に復元され現在に至った。貴重な被爆遺構として長崎市の指定を受けて、教会の門の側に銘版が設置された。

 長崎市松山町上空で炸裂した原子爆弾による猛烈な爆風により、中町天主堂は天井の崩落などで損壊した。その後に発生した火災により側壁と尖塔以外は焼失した。教会に港側から昇った火の手が包み込み、たちまち火だるまとなった。尖塔と側壁だけが残存した。中町教会は、長崎県長崎市にあるキリスト教のカトリック教会およびその聖堂である。長崎市に現存する数少ない長崎原子爆弾の被爆建造物の一つである。残った塔や外壁を利用して1951年10月に復元された。

 中町天主堂はフランス人の寄付により、1897年9月8日に建立が完成した教会である。長崎原子爆弾の被爆で崩壊したが、戦後に修復して、1951年10月に復元された。外観は白を強調し、尖塔を持つ、鉄筋コンクリート造りである。カトリック中町教会天主堂は、1897年建立されて、1951年再建に再建された。島内要助神父が、殉教の歴史をもつこ中町に、日本人のための教会を建てようと決意した。苦労の末に1889年の暮に、キリシタン大名であった大村純忠ゆかりの大村藩蔵屋敷跡である現在地を求めて教会を設立した。教会はフランスのパピノー神父の設計で1891年8月より建設に着手した。1897年9月8日聖母マリア生誕の祝日に献堂式が挙行された。教会建設にあたっては、フランスのある婦人の当時の金額で約8万フランにものぼる寄付や、多数の恩人の協力があった。1945年8月9日の長崎原爆投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。1951年10月、外壁と尖塔をそのまま生かして再建され現在に至る。貴重な被爆遺構として長崎市の指定を受けて、教会の門の側に銘版が設置された。



Friday, June 2, 2023

Devastating conditions on August 7, 1945, one day after the atomic bombing. The Obayashi Corporation building at left, the Yasuda Bank at right, was about 490 meters from the hypocenter. The Shimomura Clock Shop, center, and Yasuda Bank, right, also appear in the photograph. A corpse with legs bent is visible at the bottom of the photograph.

 広島原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月7日に、爆心地から東南約490mにて、手前に顔面を挙上して背面に足を折り曲げてうつ伏せとなった黒焦げの少年の焼死体が硬直していた。写真は広島市本土通りから東方を望んだ。左側の建物は、大林組広島支店であり、右側の建物は安田銀行があった。中央には、下村時計店とその後方に比治山の北端部が写っていた。



 8月6日に本通りに入った岸田貢宜(29歳)は、「この世の地獄。うめき、苦しみ、助けを求める人達」を8月7日から爆心地から約500mの自宅兼写真館の跡付近から、日本軍の広島師団司令部の報道班員として写真を撮った。被爆後の市中心街を最も早く収めた原爆写真とされる。8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が炸裂して約4時間後に、出張先の広島県高田郡吉田町から太田川の大芝土手に戻った。市内中心部から、膨大な被災者が市内中心部から列をなして避難した。頭髪はボウボウで火傷の顔は腫れ上がり、水疱がつぶれて皮膚が垂れ下がった。

 大林組広島支店は、倒壊は免れたが、爆風で屋根が押し下げられ、アーチ窓も吹き飛ばされて、内部は全焼した。建物内の犠牲者は3人が即死して、約1ケ月後に死亡した。被爆後に修復して、引き続き大林組広島支店と稼働した。1951年から山口銀行広島支店となり、1975年から本通り支店となった。2002年に建物は解体された。原子爆弾の爆風の痕跡を留める換気窓のみが、平和記念資料館に保存された。

 広島市平田屋町の煉瓦建て3階建ての安田銀行は、8月6日の原子爆弾の炸裂で、倒壊寸前となった。一部鉄筋コンクリートで原型を留めた。営業室にいた3人の死体が検死されて、広島支店全体でぬお人が死亡した。広島市中区大手町のみずほ銀行に、日本興業銀行・安田銀行原爆殉職者鎮魂碑が設置されている。



Friday, May 26, 2023

On August 7, 1945, the Chugoku Military District Headquarters near the main circle of Hiroshima Castle gathered desks and chairs, set up a roof with portable tents, and quickly built a temporary office for the Chugoku Military District in front of the underground operations room, which was exposed to the Hiroshima atomic bomb.

 1945年8月6日午前8時15分に一発の広島原子爆弾がアメリカ軍が投下して炸裂させた。太平洋戦争の遂行中のために、広島の軍隊は壊滅した中枢機能の再建に全力をあげた。8月7日に、広島城の本丸近くにあった中国軍管区司令部は、松村参謀長ら重症者約15人らが、古ぼけた机2つ、椅子3つを集めて、携帯用テントをつなぎ合わせて屋根を設置した。中国軍管区の仮設司令部を地下作戦室の前に急造した。同日8月7日に、同じ焼け跡に広島連隊区司令部の広島地区司令部の仮設事務所も設置された。

 広島城・第一補充隊正門よりも東側にあった広島連隊区司令部の焼け跡に作られた仮事務所のテントを南から北に向かって写真撮影した。門柱には「広島連隊区司令部 広島地区司令部 仮事務所」と垂れ幕がかかっている。テントの奥にうっすら、広島逓信局と広島逓信病院の建物が見える。写真右端には、負傷したのか、座り込んでいるような姿の男性が見える。

 広島師団司令部の報道班員の岸田貢宜が8月7日から写真撮影した。広島城の天守閣も消えてなくなっていた。傍の溝の中には、白衣や褌のままの日本軍兵士が、頭を突っこんで死んでいた。溝の黒い水を求めて、腹ばいでやっとたどりついて、そのままこと切れたのであろう。傷ついた無残な格好の兵士たちが、あちらこちらから寄ってきた。まともな服装で負傷もしていないのをみて、救助を求めにくるのであった。29歳の岸田貢宜は、8月13日頃から高熱に襲われて、数カ月にわたり療養した。



Saturday, May 20, 2023

On May 19, 2023, G7 Summit leaders visited Hiroshima Peace Memorial Museum, offered flowers and prayers at the Cenotaph for the Atomic Bomb Victims, and planted a cherry tree that survived the atomic bombing in Hiroshima Peace Memorial Park.

 2023年5月19日に日本国内閣総理大臣の岸田文雄は、広島県を訪問中のG7サミット首脳らと広島平和記念公園で開催されたG7行事を主催した。岸田首相は、広島平和記念公園でG7(Group of Seven)首脳とその配偶者に挨拶した後、G7首脳らと広島平和記念資料館を見学した。その後、原爆死没者慰霊碑で献花と祈りを捧げた後、原爆を免れた桜の木を植樹した。G7とは、フランス、米国、英国、ドイツ、日本、イタリア、カナダ(議長国順)の7か国及び欧州連合(EU)が参加する枠組でである。2023年に日本は7回目の議長国となり、広島サミットを開催した。ウクライナのゼレンスキー大統領は、G7サミットと広島平和記念公園に参加するため、5月20日午後3時半ごろ広島空港に到着した。

 2023年5月19日、岸田首相と岸田裕子夫人は、G7首脳とその配偶者を広島平和記念公園で歓迎した。フランス共和国大統領エマニュエル・マクロン閣下、アメリカ合衆国大統領ジョセフ・R・バイデンJr、アメリカ合衆国大統領およびファーストレディ、カナダ首相ジャスティン・トルドー閣下、ドイツ連邦共和国首相オラフ・ショルツ閣下およびその配偶者、イタリア共和国閣僚理事会議長ジョルジア・メローニ閣下、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国首相リシ・スナック閣下およびその配偶者、フランス共和国大統領エマニュエル・マクロン閣下、アメリカ合衆国首相シャルル・ミシェル閣下、カナダ首相オラフ・ショルツ閣下、イタリア共和国閣僚理事会議長シャル・ミシェル閣下、イタリア共和国閣僚理事長シャ・ミシェル閣下が、G7首脳およびその配偶者を歓迎した。G7広島サミットに出席するため広島を訪れたシャルル・ミッシェル欧州理事会議長、ウルスラ・フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長およびその配偶者は、広島県広島市の広島平和記念公園で会見を行った。その後、岸田総理は、広島平和記念資料館を見学した。広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑での献花式、G7首脳との植樹式に参加した。

 G7首脳は一緒に平和記念資料館を訪れ、首相自らが展示物を説明したほか、被爆者の小倉桂子さんとも言葉を交わした。訪問後、岸田総理をはじめとするG7首脳は、湯崎英彦広島県知事、松井一実広島市長の案内で原爆慰霊碑に向かった。原爆慰霊碑に花輪を捧げ、広島の中学生・高校生の協力のもと、黙祷を捧げた。松井市長から原爆ドームについての説明を受けた後、G7首脳は、岸田首相とともに、平和への希求と平和実現に向けたG7首脳の結束の意志の象徴として、原爆を生き延びた桜(ソメイヨシノ)を公園内に植樹しました。G7首脳は、平和記念公園への訪問を通じて、原爆投下の現実について理解を深め、失われた命の霊を慰めるために心を合わせた。G7首脳は、ロシアによる核兵器の使用はもちろんのこと、その威嚇も許されないとの立場を改めて表明した。今回の訪問は、核兵器のない世界の実現に向けたG7のコミットメントを確認する機会となったことを確信する。





Saturday, May 13, 2023

Around October 1945, Yuichiro Sasaki took a view and photographs of the burnt ruins to the east from the neighborhood in front of the Hiroshima branch of Yasuda Bank, approximately 800 meters from the hypocenter. This is the area around Hirataya-cho (now Hondori) in the Hondori shopping street.

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に広島市内に落下して炸裂した。1945年10月頃に、佐々木雄一郎が爆心地から約800m付近の安田銀行の広島支店前の近隣から東方の焼け跡を、展望して写真撮影した。本通商店街の平田屋町(現 本通)の周辺である。広島の中心商店街であった本通商店街は一瞬にして瓦礫と化した。写真の右側にはキリンビールホールと爆風で変形して倒壊した下村宝石店、左奥には中国新聞ビルなどが見えた。広島市民が、廃墟となった焼け跡の広島市内の街路を、大八車などを引きながら移動した。 

 佐々木雄一郎は、東京のオリエンタル写真学校を経て、内閣情報部が発行した「写真週報」のカメラマンとなった。日本の敗戦により、退職金の代わりのフィルムを携えて、1945年8月18日に広島市に帰省した。母や兄家族、姉、妹ら親族の約13人が死亡や行方不明となった。最初は肉親の死亡した場所だけを写真撮影する予定が、再度に撮影したい場所が見つかった。次第に広島原子爆弾による広島市の復興から変貌の写真撮影に深入りした。元宇品町(南区)に住み着くと、観光の写真撮影で生計を立てながら、被爆都市の広島市を記録し続けた。被爆者の苦痛を知り、物言わぬ墓標を一徹に撮影した。シャッターをきるうちに、約10万枚を撮影した。職業病である眼病を乗り越えて、組織に属さず市民のカメラマンを貫いて記録し続けた。『写真記録 ヒロシマ25年』(朝日新聞社)を、1970年7月30日に出版した。原爆はヒロシマの地上に存在するあらゆるものを破壊した。だが、その大地までは消し去ることはできなかった。

 佐々木雄一郎は、広島原子爆弾の爆心地からの距離をあらわす円周にむかって、8本の線と2個の点を図示した。放射状に8本の線をのばした。この8本の線が円周上に鋭く突刺さり停止した点が、彼の肉親約13人が被爆した地点である。13人は全員が爆死あるいは行方向不明となった。行方不明で未だに線の引けなにい迷える1個の点も含めた。被爆図が、一片の生の匂いもとどめぬ、完璧な原爆死を証明した。広島市の戦後は原子爆弾の被爆後からはじまった。



 

Saturday, May 6, 2023

A resident of the Ninoshima Temporary Relief Center who was exposed to the Hiroshima atomic bomb had a prominent keloid bulge from his left jaw to his left neck. The left lower jaw, mouth to neck, was covered with a keloid the size of a palm, with an ugly morphology.

 広島原子爆弾の炸裂により重度の被爆者は、広島湾沖の似島臨時救護所に搬送された。似島臨時救護所に入所者の左顎から左首に、著明なケロイドが膨隆した。表面的な火傷でも巨大なケロイドが形成された。左の下顎から、口から首にかけて、手のひら大のケロイドに覆われ、醜い形態を伴った。瘢痕組織の肥厚とは異なり、蟹の甲羅や脚に類似した不規則な形態の膨隆を形成するために、ケロイド(Keloid, ギリシャ語で蟹の意)と呼称された。ケロイドは、被爆後の火傷後に形成される瘢痕組織の繊維状の過形成で、皮膚への放射線熱傷を伴った。

 毛包のない火傷は治癒が長期化しやすく、治癒後もケロイドが形成されやすい。原子爆弾のケロイドは、形状が大きい傾向があり、治癒が遅れた傷が、厚く深いケロイドを形成した。創傷閉鎖後も、ケロイドの再発を示す傾向があった。ケロイドの傷跡は、被爆者の皮膚が原子爆弾の炸裂の初期閃光の熱に直接にさらされた部位に形成された。被爆者の火傷の治癒に際して過剰な量の瘢痕組織を形成する傾向があった。

 原爆による火傷や傷の傷跡が厚くなり、ケロイドの瘢痕の増殖が見られた。ケロイドは、爆心地から約2km以内で被爆して熱線を浴びた被爆者の約50~60%に見られた。ケロイドは放射線とも関係性があった。ケロイドは、被爆者の心と体にも永続的な傷跡を残した。特に、顔面に発生したケロイドには精神的な苦痛を伴った。背中や肩にできたケロイドは、肌を見せるのを避けた。

 1955年5月には、広島から25人の被爆してケロイドを顔貌などに発現した若い女性の原爆乙女が、顔と体の形成外科手術のためにアメリカに連れて来られた。彼女たちは原爆乙女(Hiroshima Maidens)と呼ばれて、約18ヵ月間のアメリカ滞在で形成手術を受けた。アメリカ国民が、出会った最初で唯一の原爆被爆者として当時はとても有名になった。


The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he was still suffering from severe burns and keloids (Bring Back the Human Being, 1982).

    The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he suff...