Saturday, September 28, 2019

The Hiroshima Red Cross Hospital conducted outpatient treatment for the A-bomb victims of the Hiroshima atomic bomb, which was flooded with only about 6 doctors and about 10 nurses.

広島赤十字病院は、爆心地から南に約1.5kmにあり、甚大な被害を受けた。病院内部は崩壊したが、3階建て鉄筋コンクリート製の外郭だけは残存した。戦争管理下で1939年陸軍病院に改修されて、兵士のみを入院させていた。正面玄関前の外来部門のみが市民の治療ができた。多くの医師・看護婦などの医療職は被爆してわずかに医師約6人と看護婦約10人のみで診療した。殺到する約1万人以上もの膨大な被爆市民を、外来部門のみ治療した。病院には比較的大量の医薬品と備品が備蓄されていた。その在庫は無限大の新しい患者の波ですぐに使い果たされた。医師と看護師は被爆者を正面玄関の前で治療した。医師も被爆して左上肢が負傷して、三角巾で支えて左上肢で、8月10日に被爆者を治療した。
 1939年5月に開院した日本赤十字社広島県支部病院は8月には陸軍指定の広島陸軍病院赤十字病院、1943年に広島赤十字病院に改称した。看護師は、日本赤十字病院に救護看護婦養成部の看護婦生徒もいた。大本営派遣調査団が被爆直後に、日本赤十字病院を訪問した。原爆調査感光したレントゲンフィルムからガンマー線の原子爆弾の放射能と8月10日付の広島爆撃調査報告で認定した。被爆により、2階のレントゲン撮影室に保管していたレントゲンフィルムが、真っ黒に感光していた。同日の陸軍海軍合同会議にて、特殊爆弾は原子爆弾であると認定された。1956年に被爆者医療に特化した日本赤十字社広島原爆病院が開院された。



Saturday, September 21, 2019

At the Shiroyama National School, which is closest to the hypocenter of the Nagasaki atomic bomb, about 133 workers were killed in the bombing and only about 19 survived.

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。爆心地に最も近い学校である城山国民学校では、教職員と生徒の約133人が被爆死して、約19人のみが生存した。登校しなかった付近の家庭に残っていた学徒は、約1,400人は被爆死して、約50人のみが生存した。
 国民学校として長崎原子爆弾から西に約500mと最も近距離であった城山国民学校は、校長以下の職員約28人、学校を使用していた三菱兵器製作所の給与課職員(約58人)、女子挺身隊(約10人)、学徒報国隊員(約41人)ら約133人は一瞬で被爆死した。8月中旬に校庭で、身元もわからぬままで死体を火葬した。被爆後に約2カ月経過しても、無人地帯となっていた。火葬した校庭には、無数の白骨が散在しままであった。引き取り手もないままに、白骨は校庭の空き地に放置された。
 長崎原子爆弾の炸裂により、猛烈な爆風と熱線から、九州初となる白亜の鉄筋コンクリートの校舎は崩壊して炎上した。本館は、土台が製法に傾き、3階建とも内部は崩壊してほとんど全焼した。旧校舎は、火災は起こらずに、3階建てがほとんど崩壊した。児童の発案により1991年2月に改装して、城山平和祈念館として整備されて開放された。
 旧校舎の階段塔屋部分は、爆心地の周辺に残存した被爆建造物として、一部が2013年8月1日に指定文化財「原爆遺跡」として残された。原爆遺跡には、爆心地・旧城山小学校・浦上天主堂旧鐘楼・旧長崎医科大学門柱・山王神社の鳥居がある。被爆による火災の痕跡や亀裂が残る長崎市の城山国民学校校舎の世界文化遺産登録を目指す城山小霊会が2019年6月21日に、長崎市と長崎県に対し、国に登録を働きかける要望書を提出した。近年被爆者が超高齢となり、被爆の歴史を語り継ぐ困難に直面して、物的な証拠の貴重さが増している。




Friday, September 13, 2019

About two months after the Hiroshima atomic bomb, the mother ran to Ohshiba National School with her serious baby, who had already died without breath.

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて広島市内で炸裂した。それから約2ケ月後に、異変に気づいた母親が重態となった男児を抱いて、広島市西区大芝1丁目25番18号の大芝国民学校の救護病院に駆け込んだ。教室を改修した治療室で、医師の診察を受けた時には、すでに息がなく死亡していた。その男児の死亡に泣きながら悲嘆した。
 大芝国民学校は、爆心地から北西約2.4kmに位置して、爆心地に向けて縦に建った南側の新校舎のみが倒壊を免れた。焼けなかった学校や病院は仮設救護所となり、被爆した多くの市民たちが救護と治療に訪れた。被爆直後から、被爆者が大芝国民学校の校庭に殺到したために、8月7日から臨時救護病院を開設した。8月7日になって火の勢いが鎮まると、救護に当たる者が引き返して再び救護の任務についた。医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人らが、専門領域を越えて不眠不休の救護活動を行った。1941年の国民学校令で、尋常小学校から国民学校に改称された。教育勅語に示された国体の精華と臣民の守るべき皇国の道を修練させた。



Friday, September 6, 2019

Injured victims were transported to the suburbs by truck, afternoon of August 6, 1945 at Furuichi-cho, Asa County.(Hiroshima)

1945年8月6日に広島原子爆弾が広島市に投下されて炸裂した。当日の午後に広島市の北部に向けて7kmの地点である安佐郡古市町を、数十台のトラックが被爆者を載て、広島市北部の可部方面に通り過ぎた。トラックの荷台の被爆者は、あまりにも無残で悲惨であった。被爆者は悲惨を通り越して無残であり、鬼気が迫った。すぐに被爆者を乗せたくても全く余地がなく次のトラックを待つように説得するのが悲惨であった。その後は時折にトラックが来ては、被爆者らを広島市北部の方に運んでいた。それでも膨大な被爆者にはどうにもならず、多くは放置となり、うめく者、水をくれとせがむ者など、この世の地獄図になった。広島市内の中心部から、トラックの荷台に乗って避難する被爆者らに、歩いてくる多くの被爆者が後から後からと続いた。
 その当時は被爆者は原子爆弾の放射能のことは全く知らなかった。トラックで運んだ被爆者達も何とか助かったと思うも、恐らくはその多くの被爆者は助からなかった。各運送会社は、トラックを約20台を保有していたが、ガソリン車は約6台ほどで、後は木炭車であった。その頃はトラックを、助手がクランクをボンネットの前に差し込んで、手回してエンジンをかけていた。最初は、戦場への兵士に送られる若年の男性が優先的に救護所にトラックで運ばれて治療を受けた。当初に老人や女性、 子どもさえもトラックに乗せてもらえず、トラックの周りに群がり、大騒ぎにもなった。


Monday, August 26, 2019

At about 300m from the hypocenter of the Hiroshima atomic bomb, a Japanese soldier suffered burns and keloids from the heat rays on both lower legs.

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した爆心地から約300mの地点で、日本軍兵士が熱線を両下腿に浴びて熱傷を受傷した。特に、衣服で遮断されずに、直接に両方の下腿の背面が重度の熱傷を被爆した。皮膚の熱傷した後に、ケロイドが形成されて瘢痕が残存した。
 原子爆弾からの強烈な熱線により、重度の熱傷を被爆した。爆心地から約1.2km以内は、全身に熱線をあびた人は、皮膚が火傷で焼きつくされた。内臓などにまで障害を受けると、ほとんどの被爆者は即死あるいは数日以内に死亡した。原子爆弾が爆発してできる火の玉の温度は、中心部で約100万℃をこえ、大きさは1秒後に最大直径280mとなった。非常に強い熱線によって、爆心地の地表の温度が約3,000~4,000℃に達した。 (太陽の表面温度は約5,700℃、鉄がとける温度は約1,500℃であった) 



Wednesday, August 21, 2019

France conducted an underwater nuclear test at the French Polynesian Mururoa Atoll in the South Pacific.

フランスが、1995年9月5日から1996年1月27日までに、6回もの太平洋の環礁核実験を再開した。初回の9月5日は、南太平洋のフランス領のポリネシア・ムルロア環礁で核実験を実施した。核実験をした直後に、広大な海面が白濁した。「包括的核実験禁止条約(CTBT)」の無期限延長が5月11日に締結された。ところが、6月13日には、フランスが核実験を再開することを公表した。
 1963年8月5日に部分的核実験禁止条約(PTBT)で、地下を除く大気圏・宇宙空間・水中の核兵器の核実験を禁止した。すべての核実験を禁止するために、1994年1月からジュネーヴ軍縮会議の核実験禁止特別委員会で協議されていた。1995年5月11日に、核保有国5カ国であるアメリカ・ロシア・イギリス・フランス・中国の以外の国家が、核兵器の核実験を禁じた包括的核実験禁止条約(CTBT)を無期限に延期する文書案が提案された。1996年9月10日に、国連総会で包括的核実験禁止条約(CTBT)を無期限に延期を採択して、締結した核保有国はできる限り自制することが圧倒的多数で決まった。しかし、国連の採択において、インド・ブータン・リビア反対して、キューバ・シリア・レバノン・タンザニア・モーリシャスは棄権した。CTBTの発効には、特定の44カ国の全ての批准が必要であるが、未発効のままである。署名済みで未批准は、アメリカ・中国・エジプト・イラン・イスラエル、未署名。未批准は、北朝鮮・インド・パキスタンである。一部の発効要件国の署名と批准がされず、CTBT条約は未発効のままである。
 CTBTの概要は、(1)宇宙空間,大気圏内,水中,地下を含むあらゆる空間における核兵器の実験的爆発及び他の核爆発を禁止する。(2)この条約の趣旨及び目的を達成し,この条約の規定の実施を確保する等のため,包括的核実験禁止条約機関(CTBTO)を設立する。(3)条約の遵守について検証するために,国際監視制度,現地査察,信頼醸成措置等から成る検証制度を設ける。 


Saturday, August 17, 2019

Severe burns were suffered to his exposed area due to intense heat rays emitted from the explosion of the Hiroshima atomic bomb.

広島原子爆弾の炸裂から放射された激烈な熱線を爆心地から約500mで被爆した。露出していた後頭部から背部にかけて重度の熱傷を被爆した。救護所に護送されて、1945年8月中旬にうつ伏せにのままに男性は苦痛に耐えていた。
 原子爆弾は非常に短時間で途方もない熱線を放出し、被爆者は甚大な熱傷を被爆した。爆心地から地面に到達した熱は、1平方センチメートルあたり約100カロリーと推定されて、爆心地から1 km以内で露出して、その熱線を直接に被爆した被爆者は、5度以上の熱傷を被爆した。爆心地から3.kmまでは、1度から4度の範囲の熱傷を被爆した。
 原子爆弾が炸裂して放射された直後のすさまじい高熱は、身体の皮膚などに最重度の熱傷を被爆した。爆心地からの距離が近いほど熱傷は重度になった。重度になると皮膚は焼けただれてズルズルとはがれ落ち、皮下組織や骨までが露出した。約1.2km以内では熱線は致命的な殺傷となった。爆心地付近では、一瞬のうちに身体が炭化して、水分さえ蒸発した。地上を襲った熱線による瞬間的な熱傷が、被爆死亡者の死因の約3割となった。



The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he was still suffering from severe burns and keloids (Bring Back the Human Being, 1982).

    The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he suff...