Friday, June 25, 2021

The keloids that had formed and swelled from the chest to the breasts of atomic bomb survivors exposed to the Nagasaki atomic bomb whose photographs were taken in February 1947 .

ケロイドの形成は、火傷した皮膚に発生した。長崎原子爆弾に被爆した被爆者女性の胸部から乳房まて形成して膨隆たケロイドを、1947年2月に写真撮影をした。

原子爆弾の後遺症と遺伝的影響には次のような原爆症があった。

   1) ケロイド:  広島と長崎の中心部、爆心地付近で著明な一次熱傷または火炎熱を受けた被災者は、凄まじい爆風と放射線によって同時に負傷し、そのほとんどが即死または同日中に死亡した。少なくともステージIの終わりに近い状態であった。これらの二次熱傷は、火炎熱の場合と性質が似ており、真皮深部や皮下組織に大きな損傷を与えるグレード3やグレード4の熱傷に似ていた。これらの病変は閃光火傷を併発していることが多く、治癒までに時間がかかった。太平洋戦争の終戦直前・戦後の劣悪な生活環境も、この長い治癒期間の原因となった。火傷の化膿、傷の修復の遅れ、皮下組織の厚い傷跡の形成につながった。瘢痕組織が収縮し、変形や機能障害が生じた。これらの後遺症は、顔、首、手指に顕著であった。

 爆心地から約2,000~約3,000メートル以内の地区で、頻繁に発生した閃光火傷(一次熱傷)の大部分は、当初は比較的短時間で治癒し、単純で薄い傷跡が形成された。両グループの差違である。骨の成熟については、1973年に調査されて、広島・長崎の胎内被爆児556名と対照群を対象に行われた。これまでの健常児の報告と比較して、手の骨端閉塞が男児では約6~約7ヵ月、女児では約8~約9ヵ月遅く進行することが判明した。

   2) 胎内被爆者の成人期: 1973年に原爆傷害調査委員会は、胎内被爆の晩期障害について報告した。胎内で高線量の放射線を受けた人に見られた原爆症は次の通りである。1)成長・発育(身長、頭囲)の遅延および小頭症の発生率の増加、(2)特に乳児の死亡率の増加、(3)抗体産生の一時的な低下、(4)末梢リンパ球における染色体異常の頻度の増加。しかし、白血病や癌の発生率の増加や、被曝した女性から生まれた子供の生殖能力の変化や性比の変化は認められなかった。

    3) 小頭症 小頭症の頻度は、原爆傷害調査委員会において、広島の胎内被爆者169人のうち、33例の小頭症を発見した。この33例の内訳は、精神遅滞が15例、正常な精神発達が18例、頭囲が標準偏差より3以上小さいのが13例であった。広島で胎内被爆した183人の子供のうち、33例の小頭症を発見した。33例のうち14例は顕著な程度の小頭症であった。長崎の胎内被爆児については、高線量被爆者(1.5km以内、50ラド以上)の平均頭囲が低いことを指摘している。長崎の爆心地から2キロ以内で胎内被爆した102人のうち7例、爆心地から2から3キロ離れた場所で被爆した173人のうち5例の小頭症を報告している。

 1963年に広島で行われた胎内被爆児の調査では、爆心地から3キロ以内で胎内被爆した545人のうち、45例(8.3%)の小頭症を発見し、そのうち12例(2.2%)は著明な小頭症であった。非被爆児473人の小頭症13例(2.7%)と比較しても、胎内被爆者の小頭症の発生率は極めて高い。きのこ会は、小頭症の子どもを持つ親たちの家族会であり、1965年に結成された。その後に、広島の作家やジャーナリストの集団である「広島学習会」の支援を受けた。




Saturday, June 19, 2021

Masao Tsuzuki and his colleagues took the Manhattan District survey team of the U.S. Army's Atomic Bomb Survey to Ohno Army Hospital to explain the damage and A-bomb diseases to the survivors of the Hiroshima atomic bombing.

アメリカ軍の原子爆弾調査団と東京大学の都築正男らは、広島県の大野陸軍病院(現在の廿日市市宮浜温泉)で1945年9月11日に広島原子爆弾に被爆して生存した被爆者と被害状況を実体調査をした。都築正男らは大野陸軍病院をアメリカ軍の原爆調査団のマンハッタン管区調査団を案内して、被爆者とに被害状況と原爆症を説明した。毎日新聞は1945年年8月31日に毎日新聞が、その他の原子爆弾による被害と被爆者の原爆症を8月31日に公表した。広島、長崎に投下された恐るべき原子爆弾の残虐性を暴露した。この度わが国医学界の手で新たに病理学的立場からその悪鬼無残の真相が究明されるに至った。戦時体制期,広島陸軍病院は基町に第一分院と第二分院,その他に江波・三滝・大野分院を開設した。1945年6月には,本土決戦に備え広島臨時第一陸軍病院,広島臨時第二陸軍病院,大野陸軍病院の三病院体制を設置した。

直後の9月19日から連合軍総司令部(GHQ)が、日本の報道や出版物を検閲して、原子爆弾の報道は9月19日にGHQが、全面的に原子爆弾の資料を検閲して禁止する直前に、9月19日直後に毎日新聞が正式に公表した。9月17日の枕崎台風の大津波で大野陸軍病院が直撃されて、京都大学の調査調査団が約156人死亡した。災害後に陸軍陸軍病院は閉鎖となり、被害状況の資料はすべて喪失して頓挫した。本事件は朝日新聞が原子爆弾でアメリカを批判したGHQのプレスコードにより、9月16日と20日の新聞の発行が止められて、京都大学の事件は、ながい間一般に知られなかった。

 広島と長崎に原子爆弾が投下されて炸裂した直後から、原子爆弾の被害状況と被爆死やの実体が、次第に日本のマスコミから公表された。都築正男らとアメリカ軍の原子爆弾調査団が広島に出入りして、原子爆弾に被爆した被爆者の原爆症の資料はすべてアメリカ軍がアメリカ本国に持ち去ったむ加えて9月19日にプレスコードが敷かれ、原爆の実相は長きにわたって封印された。日本の医学界とマスコミの敗北であった。プレスコード(Press Code for Japan[)は、太平洋戦争の終結後の連合国軍占領下の日本にて、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、新聞などの報道機関を統制する規則であり、検閲が措置された。9月15日付の朝日新聞は、正義は力なりを標榜するアメリカ米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が、病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反や戦争犯罪を否むことは出来ないと鳩山一郎の談話が掲載された。




Saturday, June 12, 2021

Hiroshima Atomic Bombing stripped the hospital with even window frames blown out , where was soon put to use again to shelter its surviving patients on lower floor as army took over above.

広島原子爆弾の炸裂により建物は、ほとんどの窓枠も吹き飛ばされていた。直ちに軍隊がまず建物の上層階を占領して使用した。その後に生き残った広島市内の被爆者を、下の階に避難させて救護するために、下の階を救護所として直ちに再び使用された(Life, 1952年7月29日, 第 33 巻, pp.19-25, 第 13 号, Time出版社)。海外で初めてライフ雑誌にて、アメリカ軍に検閲されていない広島と長崎の14枚の原爆写真が刊行された。原子爆弾を投下したアメリカから海外に向けて、広島と長崎原爆の悲劇を脅威と捉える写真家からの視点を無修正の写真で公表した(uncensored photos show atomic bombing through victims' eyes)。

 広島原子爆弾を撮影した写真家たちは、写真に収めることができないほど多くの被爆の悲劇を目撃した。救護所では、焼けただれた子供たちの茫然自失の姿をとらえた。わずかに残っていた建物では、死屍累々の各階の救護室内フロアを用心しながら移動した。しかし、最悪の被爆者の光景は写真に、あまり記録されていない。"何度もシャッターを切ろうとしましたが、被害者が哀れみを求めてくるのです」とある写真家は釈明した。"あまりにも残酷で、あまりにも非人間的で、被爆者の救護の嘆願を無視することはできなかった。もし原爆だと知っていたら、写真を撮影しようとは思わなかったでしょう」。
 日本政府は、写真家が見たように、死者は約26万人、負傷者・行方不明者は約16万3,263人、破壊された面積は約13.2キロ平方メートル、破壊された建物は約63,431棟と推定した。膨大な被爆の損害と犠牲ではあったが、統計的に許容できる数字に推計した。しかし、それが広島原子爆弾が1945年8月6日にほんの一瞬の炸裂による出来事であることは、当時はほとんど想定できなかった。1952年8月14日刊行されて発売された広島原子爆弾の関連書籍である『原子爆弾第一号_ヒロシマの寫眞記録』(朝日出版社)の中で、その説明がなされている。「ヒロシマの都市の中心部で突然、奇妙な光が閃光した...。その瞬間に広島市民らは耳に指を突っ込み、目を閉じて地面に倒れた。世界が粉々に吹き飛ばされたかのように、広島原子爆弾の大爆発は天地を大振動させた。その放射熱は太陽の千倍もあった。鉄の電柱がタワシのようにねじまがった。午前10時頃から午後2時頃まで、広島市内の街中が炎に包まれた。哀れな被爆者は喉の乾きと脱水で水を求めたが、飲水はなかった。」 
 

Saturday, June 5, 2021

In Matsuyama-cho, Nagasaki, the hypocenter of the atomic bombing, which the Atomic Bomb Casualty Commission visited from September to October 1945, the dead of the bombing had been cremated and cremated in the gutters of a residential area, and their white bones were scattered all over the area.

原爆災害調査研究委員会の学術調査団が、1945年9月から10日に長崎市内を訪問した。爆心地の長崎市松山町にて、住宅地の側溝に被爆死した死体が火葬されて荼毘に伏されていた。その白骨が側溝の一面に散乱していた。
  1945年年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂した同日の直後に、呉鎮守府調査団が広島市内を調査した。東京の大本営は、8月8日に参謀本部と陸軍省と理化学研究所の仁科芳雄など陸軍省救護調査団を広島市に派遣した。原子爆弾開発計画である二号作戦を担った仁科芳雄が原子爆弾を検証した。8月10日に広島市比治山東南で陸海軍合同特殊爆弾研究会で、「原子爆弾ナリト認ム」と報告した。爆心地は、護国神社の南方約300m、高度約550mと想定した。8月8日に広島市に派遣された技術院調査団も、8月10日に東京で政府と陸海軍に対して、原子爆弾であると報告した。
 1945年8月9日午前11時2分に長崎原子爆弾が投下されて炸裂した。8月9日午前0時にソ連の参戦して、午後10時半から東京の皇居宮中で、最高戦争指導者会議が開催された。午後11時2分から直後に長崎県知事は西部軍管区参謀に、長崎市内に広島と類似の新型爆弾の投下の電報が発信した。午前11時半頃に内務省あるいは大本営に長崎新型爆弾が連絡された。午後2時半すぎから再開された宮中の最高戦争指導者会議に報告された。その後に、8月10日午前2時半頃にポツダム宣言の受諾を昭和天皇の御前会議で決定した。
 陸軍省医務局は8月8日に陸軍軍医学校から陸軍省広島災害調査班を派遣した。8月10日に、レントゲン・フィルムの感光から放射能を含む原子爆弾と断定した。8月10日に陸軍省は、レントゲン教官至急派遣セシメラレ度と要請を受けた。8月14日に第2次調査班を広島に派遣した。ローリッツエン検電器により、8月17日まで広島市内の放射能を測定した。京都・大阪帝国大学の調査団も放射能を測定した。8月15日朝の新聞で仁科芳雄から原子爆弾が公表された。
 8月下旬から9月上旬に、東京帝国大学医学部などの大学・研究機関により、広島・長崎の調査と救護に参画した。広島の派遣団長である東京大学の都筑正男や陸軍軍医学校、理化学研究所が参加して、陸軍省第3次調査班として8月29日に広島市内を調査した。病理解剖やガイガー計数管で放射能の影響を調査した。9月3日に広島県庁で、原爆症に関する世界最初の講演会を開催した。京都帝国大学は、8月27日に中国軍管区司令部から要請されて、9月2日から広島市に入るも、9月17日の枕崎台風で11人が死亡して調査は頓挫した。長崎市には、8月下旬から9月上旬に、九州帝国大学、熊本医科大学が、調査と救護に参加した。
 終戦後に、アメリカ軍が日本進駐して、8月30日に横浜港に到達したマンハッタン管区調査団など多数の調査団が原子爆弾の調査・研究を開始した。8月28日にアメリカ軍総司令部は、8月28日からアメリン陸軍軍医団調査班が編成されて、9月4日に東京大学の調査団長の都筑正男と連絡調整して、9月8日に厚木基地から広島市内に入り、9月9日に長崎市内に入り調査を開始した。
 1945年9月14日に、文部省科学教育局により、日本学術研究会議(現在の日本学術会議の前身)が原子爆弾災害調査研究特別委員会を結成した。委員約33人、研究員約150人、助手約1,500人の大規模に構成された。アメリカ軍総司令部(GHQ)は9月22日に、日本における原子爆弾の効果を調査するための軍合同委員会を結成した。9月28日に長崎市、10月12日に広島市にて調査研究して、12月には日米合同調査は終結した。GHQは1945年9月19日に日本国内に言論・報道・出版規制を発令して、1952年4月のサンフランシスコ講和条約まで制限された。(直前の9月5日に、ウィリアム・バーチェット記者が、デイリー・エクスプレスに初めて原子爆弾被害の一部が海外に報道された。)11月30日にはGHQは日本人による原子爆弾の災害研究の公表を厳禁を通知した。1946年1月に広島・長崎原爆医学資料は呉港からアメリカ本国の軍医総監督に1973年まで極秘に保管された。

 


 

 

Saturday, May 22, 2021

When the Nagasaki atomic bomb exploded, a 22-year-old female worker suffered severe atomic bomb sickness about 11 days after the bombing and was escorted to the Omura Naval Hospital, where she died of the bombing.

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂して、22歳の女性工員が被爆した。被爆して約11日後に重度の原爆症に陥って、長崎県の大村市の大村海軍病院に護送されて、8月20日に入院した。第十二病舎に収容されて、顔面熱傷、左右上肢熱傷、左右膝関節熱傷、左右足背部熱傷と診断された。顔面から両上肢、両膝、両側足背に第二度の熱傷を罹患した。その熱傷の全面が、黒い色の痂皮により覆われた。その傷口のほとんどから膿汁が流出した。その膿汁の悪臭が漂っていた。

 入所して、直ちにまず破傷風の血清500CCの皮下注射をした。その後に毎日25%のブドウ糖200mlにビタミンBとビタミンCを加えて、静脈注射をした。全身状態が衰弱して、9月8日には白血球数が約4,700個/mmliにまで減少した。その後の経過の医療記録は特記されていなない。近日に原爆病で死亡したと推定された。

 原子爆弾の炸裂により放出された放射能のガンマー線が照射されて、身体の細胞を破壊された。熱傷を受傷すると必ずガンマー線の照射を受けれていた。原爆病をや誘発して血液が消化ギイされて出血素質と免疫不全となり、血便などを出して早期に死亡した。若い婦人でも、老年顔貌となり、頭髪は剥げた。可及的に一部の被爆者の惨状と写真が記録された。

長崎県大村市は、日中戦争が勃発して、大規模な海軍航空隊が新設された。戦闘機の大量製造と特攻隊などの基地になった。太平洋戦争が勃発して、海軍病院が新設された。病舎を十七棟を有する、約1,700人を収容する大病院となった。1945年8月9日に午後三時頃に、警察から長崎市内に多数の死傷者が発生した通知を受けた。直ちに救護隊を派遣した。午後五時頃に、大村市から、長崎市の死傷者は無数であり、鉄道沿線の大村海軍病院に約1,000人を収容する依頼が津市された。重度の被爆者は、長崎市の浦上から別仕立の汽車で大村駅に護送された。午後八時頃に大村駅に到着してから消防自動車などで病院まで搬送した。一度に約758人もの被爆者を収容した。さらに長崎県内の救護所の重度の被爆者が次々に大村海軍病院に護送された。



Saturday, May 15, 2021

In the day after the Nagasaki atomic bomb exploded, the area around the Catholic Church of Nakamachi collapsed and burned down. The citizens of Nagasaki survived in only gathered together to search for their relatives and homes.

 長崎原子爆弾が炸裂した1945年8月9日の翌日の8月10日早朝に、カトリック中町教会の周囲は、被爆後に崩壊して焼失した。長崎原子爆弾の爆心地から南南東に約2.5mの地点であった。その地域は2度目にわたる火事で全焼して一面は焼土と化した。原子爆弾の熱射線により、可燃物に火がついて再燃して、大火に発展した。カトリック中町教会は1945年8月9日の長崎への原子爆弾の投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。
 長崎市街の状況は他の空襲とは異なり、一瞬にして全市が爆風と、火災で焼土と化していた。火災の消火作業も、救援の為の医療班の活動も混沌とした。時間の経過を待つうちに、僅かに、立地条件の良く助かった長崎市民が集散して、身内と民家を探察していた。長崎原子爆弾は1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂して、約120,820人が死傷して、約18,409戸が火災を受けた。
 1945年8月9日午前11時2分、長崎原子爆弾の炸裂により聖堂の窓という窓は壊れ、内部は 爆風によって崩壊した。数時間後の火災のため聖堂の屋根は焼け落ち、残ったのは十字架の立つ尖塔と聖堂の外壁だけであった。爆心地から南南東へ約2.6kmの距離あった中町教会は、フランス人女性の寄付をもとに、1981年8月から建築に着手して、1897年9月8日に、26聖人の殉教の300年祭を兼ねて献堂式を行った。聖堂はレンガ壁にセメント塗りの広壮なロマネスク様式の建物で、正門に尖塔の4面外部壁間に各1個ずつの大時計が設置された。
 カトリック中町教会は1945年8月9日の長崎への原子爆弾の投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。1951年10月、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建されました。そのため、貴重な被爆遺構として長崎市の指定を受けており、教会の門の側に銘版が設置されています。長崎市は長崎市中町周辺で殺害された方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、銘板を設置した。
 陸軍司令部の報道部員であった山端庸介(1917-1966)は、8月1日に東京から8月6日に福岡市に赴任した。8月6日に新型爆弾の原子爆弾が投下されて炸裂した広島市を前日の夜に通過した。8月9日お昼頃に長崎市内の報道写真を命令された。8月10日午前3時に長崎市の北方の道ノ尾駅に到着した。長崎市に約12時間ほど滞在して約115枚の写真を記録した。8月12日に現像処理して、同僚の火野葦平から軍部が隠滅すると助言を受けて、そのまま東京に持ち帰った。敗戦後に9月9日にGHQは報道に厳しい検閲をかけた。約7年間も封印して保管して、1952年4月28日に対日講和条約が発効して、1952年8月6日にアサヒグラフ8月6日号に原子爆弾写真が公開された。


 

Saturday, May 8, 2021

On 25 July 1946, the United States conducted the first-ever underwater nuclear explosion at test Baker detonated at the Bikini Atoll in the Pacific Ocean.

1946年7月25日に、アメリカは史上初の水中で原子爆弾の核爆発を実施した。太平洋のビキニ環礁で爆発したベイカー核実験は、これまでに行われた約2,000回を超える核爆発実験の中で5番目であった。これらの核実験の内では、わずかのベイカー核実験などは、主に船舶や潜水艦の被害を評価するために水中爆発で核実験された。1962年のスターフィッシュ・プライム核実験などの宇宙空間での少数の核実験を除いて、主に核実験の約4分3は地下で行われ、残りは大気中で行われた。
 ベイカー核実験の装置は、船舶の下から海面下の約30メートルに吊り下げられた。TNT火薬で約23キロトンに相当する原子爆弾を爆発させた。ベーカー核実験は、1946年7月1日の大気中のエイブル核実験に引き続き、どちらも長崎爆弾と同型のプロトニウム原子爆弾を使用した。水中爆発による船舶の艦隊と動物に対する核爆発の影響を評価した。ベイカーとエイブルの両方の核実験では、約42,000人の人員、約242隻の船舶、約156機の飛行機、およびビキニ環礁からの約162人の居住者全員の退去を伴う「クロスロード作戦」の一部であった。
 ベイカー核実験では、船に乗ったすべての豚とほとんどのネズミは、爆風または放射線被曝で死亡した。約57隻の標的船のうち、約8隻は爆発の直接の影響で沈没または転覆して、甚大な被害を受けた。残りの船のほとんどは高放射能を浴びた。甲板を拭き取りスプレーなどの除染にもかかわらず、高放射能が残存した。ベイカー核実験は、エイブルよりもかなり多くの放射能を発生した。残存した船のほとんどは、その後に過高熱で操作できず、沈没を余儀なくされた。
 ベーカー核実験とエイブル核実験の翌年の1947年になって、科学者と技術者の調査団がビキニ環礁での科学的再調査を実施した。明らかに放射能が太平洋の食物連鎖に入った。プランクトンは写真の乾板上で輝いた。それを食べた魚の腸管も同様であった。ビキニ環礁がエイブル核実験前の生態学的バランスに戻るかどうかは、短期的な調査では不詳となった。実験して約50年を経た半世紀後の1998年に、国際原子力機関(IAEA:International Atomic Energy Agency)は、23回の核実験が行われたビキニ環礁は、特別な放射能除染しない限り、再定住は困難であると勧告した。核実験と放射能汚染したビキニ、エニウェック島、ロン毛ラップ、ウトリック島の住民は、1980年代にアメリカ政府に損害賠償請求訴訟を提訴した。1986年の自由連合協定によって、核実験による健康と環境への影響に対して、アメリカ政府に補償請求されている。





Operation Crossroads (Baker Event 1946)

The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he was still suffering from severe burns and keloids (Bring Back the Human Being, 1982).

    The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he suff...