Saturday, April 29, 2023

George Test, Operation Greenhouse, May 8, 1951. This 225 kilotons bomb, detonated at Enewetak, was the first true test of thermonuclear fusion and a precursor to the hydrogen bomb.

 アメリカ軍の核実験であるグリーンハウス作戦(Operation Greenhouse)のジョージ(George)実験が、1951年5月8日に炸裂した。太平洋のエネウェトク環礁のエベリル島から約60mの高度で爆発させた約225キロトン爆弾である。ジョージ実験では、きのこ雲の頂上付近に完璧なベル・ウイルソン雲を形成した。熱核融合の最初の本格的な核実験となり、水爆の前身となった。熱核融合(熱的に励起された原子核から核融合エネルギーが放出される熱核融合の最初の本格的な実験となった。ジョージ実験は、熱放射で加熱された重水素の核融合燃焼を研究するための実験であった。ジョージの核実験の結果をもとに、重水素の核融合を確認して、初の多段式ウラム水爆実験の準備を進めた。

 1951年にアメリカ軍は、熱核反応による最初の核実験場での爆発実験を行った。ジョージ実験は、1946年に特許を取得した放射線照射原理で作動する二進法開始器を備えた古典的なスーパーモデルの核実験であった。地球上で初めて燃焼した小さな熱核の炎を点火した最大の核分裂爆発となった。シリンダーと呼称した実験装置は、濃縮ウラン炉心で構成され、独自の円筒爆縮システムによって爆縮された。核分裂の連鎖反応を外部から開始させた最初の装置であった。ジョージ実験は、アメリカ軍の核実験のうち、およそ40回目の核実験であった。

 グリーンハウス作戦は、1951年4月から5月にエネウェトク環礁で実施した。4つの比較的高収率の核実験であり、ドッグ、イージー、ジョージ、およびアイテムの呼び名で構成された。ドッグとイージーは、それぞれMk 6とMk 5という2つの新しい戦略爆弾の実証試験であった。ジョージとアイテムは、熱的に励起された原子核から核融合エネルギーが放出される熱核融合の最初の本格的な実験であった。ジョージは、熱放射で加熱された重水素の核融合燃焼を研究する核実験であった。



Saturday, April 22, 2023

A young woman (22years old) visiting the outpatient clinic with many Atomic bomb survivors at the Hiroshima Red Cross Hospital was exposed to burns on her face and upper arms at the Minami Bridge, 1.7 kilometers south of the hypocenter.

 広島原子爆弾に被爆した陸田豊子(22歳、女性、くがた とよこ)は、荷車の大八車を隣の農家から借りて、日赤病院に通って治療を受けた。通院の姿を10月4日に旧文部省の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画班に同行した菊池俊吉が撮影した。10月6日には、日本映画社の原爆記録映画班の山中真男に、広島赤十字病院の外来治療室の映像を撮影された。

 陸田豊子は、広島市中区本通の安田生命広島支店に通勤途上で、1945年8月6日午前8時15分に、広島市吉島本町3丁目の実家から歩いて南大橋を抜けた地点で広島原子爆弾が炸裂した。爆心地から南約1.7km地点の南大橋で閃光にさらされ、元安川へ吹き飛ばされた。大手町方面に渡る気力もなく橋の柱につかまっていた。岸や川に無数の無残な死体を、軍隊の船が宇品まで運んだ。陸田豊子は、宇品凱旋館を拠点の陸軍船舶司令部の軍隊に救助された。

 陸田豊子は、油を塗られてムシロに寝かされた。広島湾に浮かぶ金輪島から似島に転送され、海路で玖波国民学校へ移送された。旧玖波町の収容患者名簿に陸田豊子の名前が残って、重傷者を示す◯印が付けられた。約80人が収容されて、終戦前日の8月14日までに約11人が死亡した。陸田豊子の名前が広島市で張り出され、母と親類の兄とが荷車で迎えにきた。8月24日に吉島本町の実家に戻った。

 アメリカ軍は、原子爆弾の記録写真等を接収をワシントンの陸軍病理学研究所に秘蔵した。1973年に記録写真等が日本に返還されて「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」で公開された。荷車の親子と称された。父の妹のコヒデが荷車を引いていた。母親も、吉島に戻るとサトイモの葉っぱでウミを吸い取った。治療費を工面して、足の火傷で歩行困難な陸田豊子を日赤病院へ通院させた。

 1946年に元職場へ復帰して、その後東京に転勤した。陸田肇さんと結婚し、電機メーカー勤務地である栃木県小山市に定住した。陸田豊子は「写真に撮られた時も残されるのも嫌だけれど、戦争のことを知らない人がだんだん増えた。こういう写真でしか分からないんでしょう。原子爆弾でどうなるのかを見て分かってほしい」と祈念した。



Saturday, April 15, 2023

This was the main gate of the Hiroshima First Army Hospital Ujina Branch, which was located in Ujina-cho, Hiroshima City, approximately 3.9 km south-southeast of the hypocenter of the Hiroshima atomic bomb.

 広島原子爆弾の爆心地から南南東約3.9kmに広島市南区宇品町にあった広島第一陸軍病院宇品分院の正門である。1945年10月頃は正門には陸軍兵士だけでなく、広島市民の被爆者も通院した。その建物の多くは木造だったが、広島原子爆弾の爆風被害は、ガラス窓の破損と屋根瓦が飛んだ程度でわずかだった。8月6日午前8時15分の被爆直後から被爆した負傷者たちは続々と船舶練習部に避難して殺到した。各々の被爆者に応急処置をして収容するのは困難であった。8月6日午後4時頃から重傷者たちが、表門からはトラックで、裏門からは舟艇で運搬され続けた。停電の中で、懐中電灯やロウソクで徹夜の救護活動が続いて、戦場の野戦収容所を呈していた。

 大和人絹広島工場は、太平洋戦争時下に1942年12月に操業を休止して、日本陸軍に接収された。1943年2月から日本陸軍が賃貸して工場の約3の2が陸軍船舶練習部に使用された。大和人絹工場(大和紡績工場)の中央上部の従業員寮は、東京第一陸軍病院の職員が、負傷者の治療の病院として使用した。工場敷地内には、その他に陸軍船舶練習部、陸軍砲兵教導聯隊が所在した。1945年8月9日に、臨時陸軍野戦病院が設置された。

 8月25日になって、広島第一陸軍病院宇品分院に転属となった。船舶練習部(南3.9km)の正門に、廣島第一陸軍病院宇品分院の門標がかかった。陸軍船舶練習部は、臨時野戦病院から次いで広島第一陸軍病院宇品分院となり、約6,000人以上の被爆患者が収容された。宇品分院には被爆直後に収容された患者のほか、その後に他救護所から次つぎと患者たちが護送された。広島第1病院宇品分院が一般から原爆専門病院として認識された。原爆病の探求のために、東京陸軍病院、軍医学校、東大医学部などの多くの医療専門家の拠点となった。アメリカ軍の医学調査団が、10月14日は広島第一陸軍病院を接収した。陸軍船舶練習部の敷地は、現在はマツダ宇品西工場となり、建物は倉庫として現存した。



Saturday, April 8, 2023

The Chugoku Shimbun building, about 0.9 km east of the hypocenter of the Hiroshima atomic bomb, burned down and collapsed; on August 8, a streetcar collapsed in front of the Chugoku Shimbun headquarters building, where boy suicide attackers from the Akatsuki Unit were assembled.

 広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した爆心地から東に約0.9kmの中国新聞のビルは全焼して崩壊した。2日後の8月8日には、中国新聞本社ビルより手前に、路面電車が崩壊していた。その周囲に、第10教育隊所属の暁部隊の少年特攻兵が集合していた。その遠方には爆心地から東方約1.2kmに東警察署が白い建物が残存した。広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、東警察署には翌日の8月7日には、広島市の防衛本部が設置された。2日後の8月8日には、東警察署に8月7日に設置された臨時広島県庁に、広島市民が殺到していた。広島県庁は全壊して、出先先などを含めて犠牲者は最終的に約1,131人に上った。焼け残った下柳町(現中区銀山町)の東警察署を臨時県庁とした。

 中国新聞は1945年8月6日の原爆投下で、爆心地から東へ約900メートルの広島市上流川町(現・中区胡町)に位置した。中国新聞社の本社ビルは全焼し、印刷機(輪転機)や活字、新聞用紙などを焼失した。被爆直後に,中国新聞社の建物は外壁のみをとどめ、輪転機を含めた設備機材も全滅して焼失した。輪転機一台と付属資材を広島市内東の温品に疎開させ、業務再開の重要な手段となった。社員の約3分の1にあたる約114人が犠牲になった。8月6日夕方には、他新聞社の支援による代行印刷を決定した。当日は電話も電信も不通になった。広島市宇品にある陸軍船舶司令部にて通信網を使用して、再発行を3日後の8月9日に再開できた。

 広島市宇品の日本陸軍船舶司令部は、原子爆弾が投下された8月6日午前8時15分から約35分後の午前8時50分頃に、暁部隊の少年兵の全隊員を被災地に向かわせて、救援活動を始めるように命令した。爆心地から約4kmの宇品の暁部隊船舶隊が、黒く焼け焦げ、水ぶくれ、焼け縮み、水膨れの死体を、両端の道片に並べた。灼熱で死体にウジがわき、焼けあとの臭いと異様な悪臭になった。無惨にも、暁部隊の少年兵から多くの原爆二次被爆による原爆病の犠牲者が発症した。



Saturday, April 1, 2023

After the Hiroshima atomic bomb was dropped on August 6, 1945, an outpatient examination room on the first floor of the Hiroshima Telecommunications Hospital was photographed around October 8, 1945, when an average of 300 A-bombed patients flooded the hospital each day.

 広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されてから、10月8日頃には広島逓信病院(Hiroshima Posts and Telecommunications Hospital)には1日に平均300人の被爆患者が殺到した1階の逓信局の外来診察室が撮影された。8月8日から広島逓信局が疎開した1階の畳で約100枚を、被爆患者を収容するベッドに活用した。広島逓信病院の逓信局1階と焼上した2階が診察室と病室になった。広島逓信病院が収容する被爆患者数は、平均約220人に達した。終戦の日の8月15日までに約66人が被爆死した。

 広島逓信病院は、広島原子爆弾の爆心地からの距離は北西西約1.37kmで、現広島市中区東白島町19番16号に所在した。原子爆弾の爆風が窓を吹き飛ばし、鉄筋コンクリートで倒壊は免れた。近隣からの類焼などにより、特に2階は大部分は全焼した。新館は特に大きな窓が特徴で、爆風で窓枠が飴のように曲がってしまった。

 広島市内の医師や医療関係者は、何も知らない放射線被爆や従来の外傷にもほとんど手を出せなかった。病院は、ほとんどが破壊された地域にあり、約9割以上の医療関係者が被爆の瞬間に原爆死した。医療機器や医薬品など、被爆患者を治療する必要な資材は破壊された。原子爆弾の炸裂から数日たっても放射線は危険なレベルにあり、傷を負わずに済んだ被爆者が、突然に髪が抜け、鼻血が止まらず、臓器の大量出血が出現した。1945年末には、広島市内の原子爆弾の犠牲者は約90,000人から約150,000人にまで増悪した。

 アメリカ軍の空襲に備えて、入院患者を退院させ疎開して、入院患者の被害は最小限であった。病院職員は、48人中5人が死亡(うち1人が病院内で死亡)、7名重傷、25人が軽傷の被爆した。数多くの被爆患者が広島逓信病院に押し寄せ、医療関係者は懸命な救護して、広島市内に残った数少ない医療機関として重要な役割を果たした。現在は、1995年に改装された旧外来棟の一部に被爆資料室が整備された。当初は1922年に逓信関係者に向けた広島逓信診療所として開設された。1942年に広島逓信病院(入院施設12室・30床)に改装された。


Saturday, March 25, 2023

Outpatients at an improvised relief hospital at the Shinkozen elementary school. Mid-September, 1945. Shinkozen elementary school relief station, about 3 kilometers south of the hypocenter from Nagasaki Atomic Bomb.

 長崎原子爆弾の爆心地から南へ約3kmの地点に新興善国民学校の救護所があった。被爆直後から日を追って被爆患者の患者が急増した。各地から医療関係者が派遣されて、1945年9月16日に特設新興善救護病院となった。新興善国民学校の即席の救護所には、9月中旬には、外来患者の被爆患者が殺到していた。新興善特設救護病院の外来診察室は、かつては新興善国民学校の職員室であった。9月上旬頃は、その窓ガラスは割れ、備品や調理器具が散乱していた。新興善国民学校は全壊や火災を免れていた。新興善国民学校の救護所に運ばれてきた被爆患者は、最低限の医療を受けた。その医療状態が徐々に改善されるのは、8月16日以降からであった。他の救護所も徐々に、病院の医療機関に統合されて、新興善国民学校が10月23日に統合される最後の救護所となった。

 新興善国民学校は類焼から免れて、鉄筋コンクリートで堅固で被爆直後から救護所として活用された。教室は診察室や被爆患者の病室、被爆患者の入院の場として使用された。炎天下を毎日トラックに乗って、長崎市内の爆心地方面の防空壕を調査して廻り、被爆患者を新興善国民学校に収容した。新興善国民学校の各教室とも超満員であった。独りで歩いて或は連れられて来る外来患者の被爆患者が殺到した。特設救護病院として10月初旬まで使用された。10月6日に新興善国民学校に、長崎医科大学が移管決定して10月23日に移設した。1951年12月25日に長崎大学本部と附属外来診療所が興善町35番地へ移転し、新興善小学校が復帰した。

 長崎原子爆弾が炸裂した、1945年8月9日直後に、長崎の医療体制に大きな打撃を与えた。生き残った医師や看護婦が救援活動を始めた。医療設備や物資が不足して、応急処置すらできなかった。爆心地付近の焼け野原に救援列車を走らせ、近隣の市町村の病院へ被爆者を移送した。夕方には海軍病院の救援隊が入り、夜には近隣の町から警備隊や消防隊を中心とした救援隊が到着し、被爆患者の救援に当たった。




Friday, March 10, 2023

When the Hiroshima atomic bomb exploded, a 33-year-old army officer was exposed to the bomb on the second floor of a wooden structure about 2 km from the hypocenter and developed acute otitis media and acute mastoiditis.

 広島原子爆弾の炸裂により、33歳の陸軍将校は、急性中耳炎ならびに急性乳様突起炎を発症した。被爆者は、1945年8月6日に広島市被爆の際に、爆心地より約2km離れた木造2階建の家屋の2階に、左半身を窓に向け坐した。暗緑色半袖の開襟シャツを上半身に、下半身は陸軍の将校用短袴を着した。爆発の瞬間に人事不省に陥らなかった。右側々頸部を硝子の破片で損傷し、出血が甚しく包帯にて止血した。8月7日広島市より5km離れた陸軍病院に火傷治療のため転送された。火傷部は化膿し患者は耐え難い疼痛を感じ発熱は39°Cから40°Cに及んだ。8月12日下熱後に、広島市より40km離れた他の病院に転院したが、翌8月13日より右側の耳漏が始った。被爆して42日目9月17日に九州帝国大学病院耳鼻科に収容された。

 現 症

 体格は中等大であるが筋骨の発達良好である。顔貌は苦問を呈しているが貧血性ではない。左側々頸部, 肩甲部, 上腕および脊部に火傷による瘢痕が見られた。


















  脈搏の緊張良好で90回/分に至る。火傷の訴は現在ない. 胸・腹部臓器にも著変を認めず、尿に糖、蛋白を証明しない。局所所見は鼻、咽頭 喉頭に著変を認めない。左側鼓膜はほぼ正常である。右側外耳道に濃厚な粘液性膿汁が充ちた。清拭して診ると鼓膜は発赤膨隆し、前下方に小穿孔があり、拍動性の膿汁排泄が見られた。膿汁の塗抹標本より連鎖球菌を多数証明した。血液検査所見は表示する。







 経過

 1945年9月18日 患者は頭痛を訴える。本日より肝臓製剤ヘパトーゼ3.0を1日3回食間に服用した。9月21日 右鼓膜切開施行。9月24日 中耳炎に対する適当なる処置にもかかわらず耳漏減少の傾向なくかつ患側の偏頭痛が激しく、右側乳様突起切開術を施行した。乳様突起の骨皮質に著変を認めなかったが、切開の第1撃にて濃厚なクリーム様膿汁が流出した。切開を進めると乳様洞および他の総ての蜂業は、膿汁と肉芽組織に充され蜂築隔壁は既に融解消失した。特に注意すべき点は骨質が一般に脆弱となっていた。骨性外耳道後壁の如きは腐骨の如き観を呈し除去された。鼓室天蓋に相当する部にて硬脳膜を一部露出したが、著変を認めなかった。9月27日 耳後創内及び外耳道内の膿汁貯留は多量である。9月29日 患者は向頭痛を訴え睡眠も障害されるので睡眠剤を投与した。

 1946年1月5日 耳後創内の膿汁貯留なお多く耳漏も止まないので、スルフミン3.0を1日3回食間に分服した.10月22日 耳後創内の膿汁貯留なく頭痛も消失し安眠可能となった。耳漏はなお止まない。11月20日 耳後創はほとんど治癒し耳漏も止み患者は退院した。(出典: 原子爆弾災害調査報告集、1953年5月)

The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he was still suffering from severe burns and keloids (Bring Back the Human Being, 1982).

    The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he suff...