Monday, September 24, 2018

A 3 year old girl died in Omura Naval Hospital just after hospitalization due to Nagasaki atomic bomb. (Nagasaki)

長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されて、重度の火傷を3歳の女児が被爆した。8月26日に大村海軍病院の三病舎に入院した。すぐに重症で重毒であるとし診断された。右側頭部挫傷と左右の下肢が熱傷した。入院して、火傷部にガーゼー覆うべき処置をした。その後の入院記録もなく、入院直後に死亡したと推察された。終戦後には、大村海軍病院に9月26日に進駐してきたアメリカ兵が病院の被爆者の資料をすべて持ち帰った。 1973年アメリカ陸軍病理学研究所(AFIP)から学術資料や病理組織などが返還された。

Saturday, September 15, 2018

The dead bones of Hiroshima atomic bomb victims were buried in a thousand mounds at the site of the quarantine station on the Ninoshimar island. (Hiroshima)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に炸裂した。広島港から約3kmの似島の救護所に、宇品の陸軍船舶司令部から午前9時頃に手信号で緊急連絡が入った。広島港は日清戦争の西端の大本営となり、海外の帰還兵士の感染症の検疫と消毒のために、似島に検疫所を設置していた。十代の青年兵士である暁部隊が、広島市内の被爆者を、数隻の上陸用船艇に多数の重症の被爆者を載せて、午前11時頃に似島に到着した。千人塚の左後方像では、暁部隊が特殊潜航艇(マルレ)を運用した。第二検疫所には約10,000に及ぶ重度の被爆者の臨時野戦病院となり、8月6日の原爆の日だけでも、約2,000人が護送された。原子爆弾は、無差別に火傷で変貌した全身で、男女の区別もつかず、幼児に至るまで大量虐殺であった。膨大な被爆者に対して、似島に駐屯していた衛生隊や検疫所の軍人は、すべてが救護活動に関わった。4日目には医療機材等を使い切った。重度の放射線被爆者は約4日以内に死亡した。被爆による原爆死の死体の処置は、ほとんど他の応援部隊が執行した。主に掘ってあった防空壕などに死体を埋葬した。似島から瀬戸内が一望できる防疫班の厩舎跡に、身元不明者の被爆者の遺骨の墓標として千人塚に埋葬された。1955年に約2,000人の遺骨を発掘して、平和公園内の原爆供養塔に納骨して千里塚は撤去された。




Sunday, September 9, 2018

A 15 years old boy who was mobilized as a student was exposed to the Nagasaki atomic bomb at the Mitsubishi factory and suffered from severe burns and tetanus with intense pain.

長崎原子爆弾が1945年8月9日に炸裂して、15歳の男子が重度の熱傷を被爆した。大村海軍病院に翌日の1945年8月10日に護送されて入院した。男児は、中等学校以上にる学徒勤労動員されて、長崎三菱養成所で被爆した。顔面、背部、右上肢、左右右足背に重度の熱傷を被爆して、大村海軍病院の八病舎に収容された。8月11日以降は毎日生理食塩水であるリンゲル液500CCを静注された。8月20日には破傷風を発症して、頚部は硬直して、顔貌は痙笑して、牙関緊急の症状が出現して、開口が不能となった。熱傷の創面は著変なくても、激しい疼痛を伴っていた。腹筋も著明なる緊張があり、圧痛を伴った。脊髄痛があり、膝蓋腱反射も消失した。直ちに8月20日に破傷風の血清20ccを脊髄腔に注入した。8月21日には破傷風の血清20ccを脊髄空と皮下に注入した。8月22日には破傷風血清を20ccを静脈内に、20ccを皮下に注射して、8月24日まで注射を継続した。その後の記録はないが、8月24日に病死したと推定された。



Friday, August 24, 2018

The great heat rays burned the dark parts of "Kimono" pattern into her skin by Hiroshima Atomic Bomb.

広島原子爆弾の強烈な熱線で、女性は右顔面と背中から右上肢に着物の柄が焼き付いた火傷を被爆した。被爆日に第一陸軍病院宇品分院に救護された。
 広島市で原子爆弾が炸裂した瞬間に、約1秒後には直径が約280mもの火球が、空中に暴発して、約10秒間にわたり発光した。広島市爆心地から原子爆弾の火球から放出された熱線は、炸裂して約0.01秒から約3.0秒間の熱線により、爆心地周辺の地表は約3,000〜4,000℃にも達して、膨大な火災と黒焦げの被爆死が散乱した。強烈なる熱線によって、火傷や火災で甚大な被爆者が焼死した。火傷は熱線に直面していた身体側を中心に被爆して、体内の組織や臓器までも傷害を受けた被爆者は即死あるいは数日で死亡した。爆心地から約600m以内では屋根瓦が熱線で表面が溶解した。約1.8km〜2.0kmでは、着物や衣服にも発火して重篤な火傷を被爆した。約2.5km以内では、木造の人家に発火して炎上により膨大な被爆者が焼死した。約3.0km以内では、木材から樹木まで発火して火災が発生して、一面が黒焦げになった。約3.5km以内では、衣服や衣類の付けない身体側に重度の火傷を被爆した。

Tuesday, August 14, 2018

A new bomb dropped to Hiroshima, B29 attack with a few aircraft, considerable damage to hHIroshima city (Imperial Headquarter announced 15:30 on August 7, 1945)

大本営発表(1945年8月7日15時30分)
広島へ敵新型爆弾 
B29少数機で来襲攻撃 
相当の被害、詳細は目下調査中

1. 8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
2. 敵は攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細は目下調査中なり

落下傘つき 空中で破裂
人道を無視する悲虐な新爆弾

6日午前8時過ぎ敵B29少数機が広島に突入、少数の爆弾を投下した。これにより市内には相当数の家屋の倒壊と共に火災が発生した。敵はこの攻撃に新型爆弾を使用したもののごとく、この爆弾は落下傘によって降下せられ空中で破裂したもののごとく。その威力に関しては目下調査中であるが、軽視を許されぬものがある。
敵はこの新型爆弾の使用によって無辜の民衆を殺傷する残忍な企図を露骨にしたものである。敵がこの非人道なる行為を敢えてする裏には戦争遂行上の憔悴を見逃すわけにはいかない。かくのごとき非人道なる残虐性を敢えてした敵は最早再び正義人道を口にするを得ない筈である。

朝日新聞(昭和20(1945)年8月8日号)

第2次世界大戦の終結から2018年8月15日まで73年間

Sunday, August 12, 2018

While Hiroshima atomic bomb collapsed almost Hiroshima City, a mother sent her daughter with a painful bandage to Hiroshima Red Cross Hospital on a large hand-down Cart every day.

広島原子爆弾によって広島市内は壊滅した。その焼け跡を母親が、痛々しい包帯姿の娘を毎日に大八車にて、広島日赤病院に通っていた。 娘は1945年8月15日に広島市革屋町に出勤する途上で被爆した。爆心地から約2kmの羽衣町の南大橋で被爆した。母は救護所を転々として娘を探索した。23日目に大竹市玖波小学校で母と火傷した娘は再会できた 。母は吉島の家から娘を大八車で日赤に通わせた。



原子爆弾に被爆した被爆女性が、顔面から左上肢から左半身の熱傷を1945年10月初旬に広島日赤病院で手当を受けた。広島日赤病院の皮膚科医長と救護看護生が治療をした。被爆女性は母親に荷車に乗ってもらっていた娘であった。先生は 継続した治療を諦めていた。母親が玖波町から娘を連れて帰り、毎日病院に大八車で送り迎えした。両人ともに戦後も原爆症が抑えられ健在であった。




Wednesday, August 8, 2018

From the explosion of the Nagasaki atomic bomb to the mushroom climb, the US military B-26 took a 16 mm color image for 3 minutes 50 seconds.

 長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて、炸裂した瞬間からきのこ雲が立ち上るまで、アメリカ軍が16mmカラー映像を3分50秒間まで撮影した。ボックスカーと呼称したB-26爆撃機の窓からレンズの焦点を当てると真赤な火玉が撮影された。長崎市内は、原子爆弾の火玉により反射して一部地域に赤味がかった。やがて白いキノコ雲が出現して、膨張しながら高度を上げて、巨大なきのこ雲に変貌した。ファットマンと呼称されたプルトニウム239型の長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下された。爆心地の長崎市松山町171番地の上空約500mの爆心点で炸裂した。ファットマンは、TNT火薬では約22,000トンに相当した。




The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he was still suffering from severe burns and keloids (Bring Back the Human Being, 1982).

    The boy was admitted to a hospital in Nagasaki after the atomic bombing. Even five months after the explosion on August 9, 1945, he suff...